2013.08.06 書評

『火群のごとく』解説

文: 北上 次郎 (文芸評論家)

『火群のごとく』 (あさのあつこ 著)

 江戸を遠く離れた六万石の小国を舞台にした物語である。その小国は、高瀬舟を使った交易と川漁が盛んな小舞藩で、自然豊かな地だ。本書は、そこでのびのびと育つ少年たちの日々を描く青春時代小説である。

 まず三人の少年が登場する。顔も体もいかつい上村源吾、長身で温和な山坂和次郎、そして主人公の新里林弥。同じ剣道場に通う幼なじみである。川が流れ、木々はざわめき、そういう自然とともにある暮らしのなかで、少年たちの牧歌的でありながら緊迫した日々が活写されていく。

 まず目につくのは、全編を貫く自然の息吹だ。たとえば、こんな記述がある。

 空は薄墨の色をしている。昨日も一昨日も下午あたりから雨になった。雨脚の弱い五月雨ではあっても、断続的にだらだらと降り続くとそれなりの量になるらしい。柚香下川の流れは普段より濁り、荒れていた。土色の水面を撫でるように燕が数羽、飛び交っている。早瀬の音が耳に響いてきた。雨に洗われたばかりの川辺の柳は、曇天の下でさえ翠色に淡く輝く。刃針に似た細長い葉が風に翻り、翠の光を撒き散らす。川土手の向こうに広がる田にも風になびく若緑の苗があって、光を弾いている。天も地も川も光に抱かれ、塗れる季節はもう間近だった。

 あるいは、林弥たちが道場に向かうシーンでは次のような記述もある。

「味噌屋の角を曲がる。店先に樽を並べた味噌屋からは、いつも独特の良い香が漂っていた。その隣は狭い空地になっている。今はまだ地面が露(あらわ)だが、ほどなく旺盛に伸びる夏草に覆われてしまう。草いきれが鼻孔をくすぐる」

 山肌を削って滑り落ちた巨岩が流れをせきとめて出来たとの謂われのある淵で、林弥たちが遊ぶシーンもここに並べておこう。潜った林弥が水面に顔を出し、地上のさまざまな音がぶつかってくる場面だ。

「瀬音、風音、蝉しぐれ、浅瀬で遊ぶ子どもたちの歓声、鳥のさえずり、竹林の葉擦れ。この世はなんと多様な音に満ちているのかと驚き、川水がその全てを封じて流れていることに、さらに驚いてしまう」

 現代生活で私たちが失ってしまった自然の匂いが、ここには濃厚にある。自然豊かな小藩を舞台にして少年たちの友情と成長を描くという点で(しかも背景には大人たちの権力闘争があるという点で)、藤沢周平『蝉しぐれ』や、宮本昌孝『藩校早春賦』を想起するが、そういう先行する傑作群と肩を並べていることは素晴らしい。

 もちろん、それらの先行する傑作群との違いもある。それは、もう一人の少年が登場することだ。樫井透馬。筆頭家老が出入りの職人の娘に手をつけて生ませた子で、家老の長男も次男も病弱なので後嗣候補の一人として江戸から国元に呼び寄せられてきた少年だ。

火群のごとく
あさのあつこ・著

定価:620円(税込) 発売日:2013年07月10日

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