2013.12.18 書評

「言葉遊び」の悲喜劇

文: 安藤 礼二 (文芸評論家)

『問いのない答え』 (長嶋有 著)

 この十数年の間で、インターネットは驚くべきスピードで人々の間に拡散し、浸透した。それとともに個人の情報発信も容易になった。人々はハンドルネームという「仮面」を被りながら、日々の生活の細部や「内面」を、自らが撮影し、あるいは自らが描いたイメージとともに吐露し、他の人々もその「つぶやき」に匿名で、瞬時に反応することができるようになった。しかも、それらの過程をすべてその目で見ることができるのである。ネットの大海のなかでは不謹慎な欲望も簡単にかない、不注意な一言でそれまで築き上げてきた信頼が一瞬にして失われる。ネットを流れていくのはイメージも含めてすべてが「記号」、すなわち「言葉」である。時間や空間の壁を乗り越えて、あらゆる人があらゆる人とつながり合うことが可能になった。

「言葉」を使うこと、あるいは「言葉」の変容に対してきわめて鋭敏な感覚をもっている長嶋有は、無数の短い「つぶやき」が積み重ねられ、その度ごとにさまざまな関係が構築されては消滅してゆくツイッターを舞台に新たな小説を書いた。特にこの日本で、ツイッターの功罪が大きく論じられるようになったのは、2011年3月11日の東日本大震災以降のことであろう。携帯電話網が役に立たず、テレビや新聞の報道が行き届かないなか、かろうじて「つながり」が保たれていたのがツイッターだった。人々は他のメディアが機能不全に陥るなか、ツイッターを通じて多くの貴重な情報を得、多くの貴重な「言葉」を得た。もちろんそれとともに、同じくらいの、あるいはそれ以上の、根本的に誤った情報や聞くに堪えない罵詈雑言や中傷の「つぶやき」にも埋め尽くされていたのではあったが……。

 長嶋が新たな小説のスタートラインを引くのは、震災の直後からである。いくぶんかは現実の作者のイメージが投影された物語のなかの登場人物、作家のネムオはツイッターを通じた「言葉遊び」を始める――「地震のあった三日後、ネムオは仲間と『それはなんでしょう』という言葉遊びを始めた。よく分からない質問に、無理矢理回答する遊びだった」。たとえば、「どうしますか?」という質問が提出される。なにがどうしたのかはいまだ分からない。分からないまま、それぞれが答えを出していく。答えがほぼ出揃ったころで質問の全体が明かされる。1つの質問に無数の回答が与えられる。そこには思いもかけなかった「言葉」と「言葉」の出会いが実現されている。 まさに「問いのない答え」が連鎖していくことで、さまざまな人と人の出会いも「つぶやき」を介して、その「つぶやき」の積み重ねのなかで実現していくのである。

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問いのない答え
長嶋 有・著

定価:1,450円+税 発売日:2013年12月09日

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