文春写真館

日本のラグビーを牽引した平尾誠二の早すぎる死

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部
日本のラグビーを牽引した平尾誠二の早すぎる死

 高い技術力と自由な発想で日本のラグビーを牽引した平尾誠二は、昭和三十八年(一九六三年)、京都府生まれ。それまで無名だった伏見工で「泣き虫先生」と呼ばれた山口良治監督の下、全国高校選手権を制覇する。このときの快挙は「スクール・ウォーズ」としてテレビドラマ化され、多くの感動を呼んだ。

 同志社大学に入学、大学二年生の若さで全日本代表に選ばれた。全国大学選手権三連覇の金字塔を打ち立てる。

 大学卒業後、イギリスのリッチモンドに単身でラグビー留学する。しかし、ファッション雑誌の表紙を飾ったことがアマチュア規定に反するとされ、帰国する。紆余曲折の末、昭和六十一年、神戸製鋼に入社。神戸製鋼では平成元年(一九八九年)から日本選手権七連覇に貢献した。

 国際試合でも活躍、平成元年五月二十八日、平尾は主将としてチームをまとめ、日本代表はスコットランド相手に歴史的な勝利を上げる。写真はこのとき撮影。宿澤広朗監督との対談でこの勝利を大きな価値として認めた。

「今後はボード国のチームと試合をするときでも、常に勝つ気でやると思うんです。勝つ気でやるタックルと、いいゲームをしようじゃないかというタックルとは全然、質が違ってくる。この気持ちだけでも20点は縮まると思うね。たとえ力量差があったとしてもね」(「ナンバー」222号)

 ボード国とはかつての国際ラグビー評議会加盟国で、世界最高レベルを維持する八カ国(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ)を指し、それまでその牙城を崩すことができなかった。

 ラグビーのワールドカップには第一回から三大会連続出場。平成三年、第二回W杯においてジンバブエ戦で日本代表初勝利に貢献した。平成九年、現役のまま日本代表監督に就任し、翌年、現役を引退する。平成十一年、日本代表監督として第四回ワールドカップに出場。その後、神戸製鋼の総監督兼ゼネラルマネジャーに就任する。

 日本代表は長く低迷の時代が続いたが、平成二十八年、ワールドカップで南アフリカを破る金星をあげた。しかし、三年後に控えたワールドカップ日本大会を目にすることなく、平成二十八年十月、五十三歳という若さで死去。没後、胆管細胞ガンだったことが明らかにされた。

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