この『新聞記者 司馬遼太郎』が産経新聞ニュースサービス(現産経新聞出版)から単行本として出版されたのは、平成12年2月のことである。司馬さんが亡くなってから4年後のことだった。
出版の年からさらに4年後の平成16(2004)年、日本は日露戦争開戦からちょうど100年という節目の年を迎えた。そこで再び注目を浴びたのが、司馬さんの『坂の上の雲』だった。言うまでもなく、正岡子規と秋山好古・真之兄弟という愛媛県松山市で育った3人の若者を軸に、日露戦争とその時代を描いた傑作である。イデオロギーを捨て去り、あくまで事実に即したその歴史小説は、日本人があの時代を振りかえるのに最適のテキストだったからだ。その後、NHKで初めてテレビドラマ化された。
司馬さんが『坂の上の雲』をサンケイ(現産経)新聞に連載したのは昭和43年4月から47年8月までである。その準備、つまり取材には5年余りかけたという。とはいえ、すでに戦争から70年近くが経っていた。当然、その対象は公的な記録や研究書、証言集などであり、さらには当事者の遺族らからの聞き取りだった。だが、わずかながら戦争を直接見聞きした人の証言が出てくるのに、読者の一人として驚いたことがある。
例えば日本海海戦の項で出てくる佐藤市五郎氏という高齢者である。佐藤氏は明治38年5月27日、対馬海峡に浮かぶ孤島、福岡県沖ノ島で宗像大社の使夫として、この海戦をつぶさに目撃した。司馬さんが取材したとき、佐藤氏は80歳を越え、病気療養中だった。しかし、目の前にロシアのバルチック艦隊が現れたときの驚き、砲声が続く中で「身がしきりにふるえ、むやみに涙がこぼれた」ことを昨日のことのように語っている。
新聞記者は記事を書くとき、百の間接証言よりも一つの直接目撃談の方が読者を引きつけることを身をもって知っている。司馬さんも小説を書くに当り、何としてもこの「市民として唯一の目撃者」を捜しだそうとしたことは想像に難くない。大先輩に対し不遜ながら、まさに「新聞記者 司馬遼太郎」の面目躍如である。
もうひとつ、この13年間に顕著になってきたのが尖閣諸島や島根県の竹島という「島」をめぐる中国、韓国とのあつれきである。だが司馬さんもかなり早くからこのことに関心を持っていたようだ。
本書の第2章「古都の片隅で」の中に青木幸次郎という対馬出身の男性が出てくる。 司馬さんが2番目に入った「新日本新聞社」の先輩記者である。何年か後、この青木が編集局長を務める仏教系の「中外日報」に司馬さんが『梟のいる都城』という小説を書き、これが『梟の城』と改題され、直木賞を受賞する。そんな因縁もあってか、「街道をゆく」シリーズの『壱岐・対馬の道』にこの先輩記者を頻繁に登場させている。
その中でこんな場面がある。編集局の真ん中に立って新聞を読んでいた青木が突然、大声を上げた。「対馬は朝鮮領だと李承晩大統領はいっているよ」。小さな記事が載っていたのだろう。まわりは大声をあげて笑った。ユーモアとしか思えなかったからだ。
しかし司馬さんは「李承晩氏は本気だったらしい」と書く。というのも『壱岐・対馬の道』を執筆中の昭和53年4月、米国務省が公表した1951年の外交文書で、李承晩政権の韓国が国務省に対し、対馬が韓国領であることと、講和条約で対馬が韓国に引き渡されるかどうかの確認をしたことが明らかになったからだ。米国はむろん否定するが、司馬さんは、李承晩をはじめ韓国側の「思い違い」の根拠を冷静に説いている。
尖閣や竹島を「固有の領土」とする中国や韓国の主張は日本人にとっては「噴飯もの」でしかない。だが、それぞれの国内政治事情ともからまり、両国ともとても引っ込めそうもない。対抗するには司馬さんのように、新聞記者的に一つ一つ事実を積み重ね、訴えていくしかない。
今回『新聞記者 司馬遼太郎』は文春文庫として装いを新たに世に問うことになった。司馬さんの生誕90年ということのほかに、現代に意義を持つとすれば、そうした時代背景であろう。
最後になったが、執筆にあたって取材に応じてもらったり資料を提供いただいた多くの方がこの13年の間に、司馬さんの後を追うように鬼籍に入られた。
戦後すぐ大阪の闇市で知り合い、新世界新聞から新日本新聞、そして産経新聞とともに渡り歩いた「盟友」の大竹照彦氏であり、司馬さんのよき理解者だった産経新聞の元編集局長、青木彰氏、元社長の植田新也氏らである。大阪本社文化部時代に名コンビを組んだカメラマンの井上博道氏も去年、亡くなられた。謹んでご冥福を祈りたい。
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