愛川欽也が、もうこの世にいないことが、信じられない。
骨壷を前にして「あぁ…もう、キンキンはいないんだ」と我に返り、私は泣いている。彼が逝って二週間以上経つのに、まだ私は泣いている。泣いても泣いても涙がでてくる。遺骨を覆う白い布に涙が溜まる。毎晩、寝る前に、骨壷を一階の白い花に囲まれた居間から寝室に運びながら私は話しかける。
「キンキン、さみしいよォ。さみしいよォ」
本当にさみしい。今も思う。キンキンに私の命をあげたかった……。
キンキンは人を集めては喋るのが好きだった。彼のよく響くあたたかい声が、いつも家の中にあった。電話を耳に当てながら「あいョ! あい! あい!」と彼独特の相槌から始まる。
そして、いつも書いていた。テレビの感想から、美味しそうな料理の作り方まで、紙は台本の裏を利用する。なんでも捨てずに使う人だった。
普段は笑顔で、おだやかで、やさしいひとが声を大にして怒る時があった。それは「戦争」に関する話題だった。政治家が、「集団的自衛権」とか言いはじめるとテレビの画面に向かって、「苦しんだり、悲しむのは、貧しい庶民なんだ!」とくやしがった。昭和九年生まれで二度の戦争体験をしている彼は「護憲、平和が大切!」と叫んでいた。「泳ぎたくない川」の中でも、キンキンは戦争の被害者だ。母ひとり子ひとりで東北に疎開し、そのあと十一歳の少年が母親の親戚や友人の親をたよって部屋探しをする。みんな冷たい。四畳半くらいの冷たい風の入り込む部屋で、幼いキンキンはお母さんを守ろうと、また、部屋探しをする。
そんなつらい経験をしているから、キンキンは年下の人達、貧しい人達にやさしかった。いつも「キンキン塾」という俳優を目指す若い人達を稽古帰りに、「腹へってないか?」といっては、近くの中華屋に連れていった。
愛川欽也は「偉大」だった。何でもできた。「天才」ともいえた。政治番組の司会から情報番組、歌番組、そして、俳優……若い頃、生活のためにバンドでタイコを叩いていたというバツグンのリズム感で作詞、作曲までできた。歌うことは、勿論、大好きだった。たくさんの歌のアルバム、CDが残っている。
キンキンのCD、DVD、映画、ポスターが手元に残っている。映画は八作品を脚本、演出、監督、主演している。すごい才能だとまた改めて思う。ただ、私は、今はつらくて見ることができない。きっと一生見られないだろう。