「求道する文人の悲願(2)」より続く
カトリック信仰と死者との関係
『戦艦大和ノ最期』は、吉田と小林をはじめとした同時代を牽引する書き手たちとの関係を切り結んだ。もう一つ、この作品が彼にもたらした大きな出来事がある。受洗である。この作品の草稿は、小林だけでなく、あるカトリックの神父の手にも渡っていた。
一九四八年に吉田は、カトリックの洗礼を受けている。このときの経緯が「死・愛・信仰」に述べられている。この一文は、本書のなかでもっとも重要な作品の一つでもある。彼はここで信仰に至る道行きを語っただけではない。『戦艦大和ノ最期』を別にすれば、他の随想には見られないほどになまなましく戦艦大和での悲劇を直接的に語っている。彼の精神的小伝であるといってよい。
これまで吉田満の「精神」をめぐっては幾つかの優れた著述がある。だが、その霊性をめぐっては未だ十分ではない。吉田満の霊性に肉迫したいと願う者は、彼がカトリックの信仰者であることから目を離すことはできない。また、彼が亡き者たちとの間に不断の、そして創造的ともいえる関係を持ち続けられたことも彼の信仰と無関係ではない。正統なるカトリックにおいて死者は、生者と超越者との間をつなぐ者として認識されているからである。
表題作をはじめ「青年は何のために戦ったか」「死者の身代りの世代」などを読むと戦争と平和をめぐる彼の態度だけでなく、戦後の日本が担うべき課題を政治経済、あるいは国際問題を視野に入れながら語る論調は四半世紀以上経過した今も新鮮な指摘を多く含んでいる。「戦後日本に欠落したもの」で吉田は、戦後、敗戦国だった日本は、「外から与えられた民主主義が、問題のすべてを解決してくれるものと、一方的に断定し」、自らの「アイデンティティー」を見失ったという。
通常、自己同一性を意味するアイデンティティーを吉田は「自己確認の場」(本書一六頁)と訳している。彼が考えていたアイデンティティーは心理学上の概念ではない。彼の視座は、政治、経済、思想或いは文学を認識する理性、感性の働きを凝視するに留まらない。信仰者である彼は、そこに霊性の問題が深く関係してくることを感じている。
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