レビュー

人と小説

『浅草のおんな』 (伊集院静 著)

文: 道尾 秀介 (作家)

 先日、仕事の手を休めたときに、ふと八幡巻の味が思い出された。

 少々原稿が立て込んでいて食事をとれていなかったので、ひどく空腹だったせいだろう。ああ今ここに八幡巻があればなあと、あの味と食感を思い出しながら、僕はしばしぼんやりと目をつぶっていた。八幡巻は煮牛蒡を鰻で巻き込み、ほどけないよう串でとめ、それをまた煮るか焼くかした料理で、口に入れたときの感触がまずたまらない。やわらかい鰻を噛んだ瞬間に鼻の奥へ甘い香りが広がって、中の牛蒡に歯があたると微かな苦味がたちのぼってくる。端から少しずつ囓っていくのもいいし、大胆に一口でぱくりとやるのもいい。酒は日本酒がぴったりで、熱燗でもひやでもいけるけれど、常温がいちばん合う。甘辛いタレの風味がまだ口に残っているうちに日本酒をすすり、その日本酒の香りがまだ残っているうちに八幡巻を囓る。

 などと鮮明に思い浮かべることができるのにもかかわらず、僕は生まれてこのかた八幡巻というものを食べたことがない。

 冗談のようだけど大真面目で、僕が食べたのは、志万田のカウンターに出された八幡巻なのだ。

 読者にこんな体験をさせるのが、どんなに難しいことか。小説家のはしくれとして、僕もよく知っている。

 この世で最も綺麗な景色や、美しい女性。最も魅力的な声。いちばん硬い岩や、いちばん寒い場所、暑い場所。それらはすべて小説の中に存在する。文章というものは、肉眼よりも肉眼に近い情景、肉声よりも肉声に近い声、体感よりも体感に近い感覚を読者に提供することができる。そう信じているからこそ僕は作家をやっている。

 が、じつは食べ物だけは難しい。どんなに文章に工夫を凝らしてみても、「美味しそう」にしかなってくれないのだ。こんなに鮮明に食べ物の味を読み手に伝えられるのは驚くべきことで、いったい伊集院さんはどんなテクニックを使ってそれを成功させたのだろうかと、僕は手もとにあった単行本版『浅草のおんな』のページを捲ってみた。冒頭から丹念に読み返しながら、八幡巻が出てくるシーンを探してみたのだが――そこでふたたび驚いた。

 八幡巻の味についてなど、どこにも書かれていない。それを食べているシーンさえない。あるのは、志万と美智江が短く会話を交わしながら、店の中で八幡巻を仕込む場面のみで、それもまるで一筆書きのようにさらりと描写されているのだ。

 どうやら僕が味わったのは、八幡巻そのものではなかったらしい。それを仕込んでいた二人の手つきや顔つき、彼女たちの過ごしてきた人生、浅草という町の空気、その片隅で暖簾を揺らす志万田の風情、やって来る常連客たちの笑顔や泣き顔、そして彼らの人情だったのだろう。

 頭の中に物語があり、それを文章化しようとする作家には、こんな小説は書けない。心の中に物語がある人にしか書けない。心に物語を抱くには、登場人物たちを真摯に愛さなければならない。そして登場人物たちを愛するには、まず生身の人間を愛さなければならない。たくさんの人と、深い愛情や人情を通わせなければならない。そこにはもちろん技術的なノウハウなど存在しない。笑い、泣き、怒り、歯噛みし、ひたすら「生きる」しかない。他の多くの著書と同様、この『浅草のおんな』もまた、伊集院さんの歩んでこられた人生そのものによって生み出された作品なのだろう。

 志万田の店内で、こんな一幕がある。

 一見の客が美智江の働いている姿を見て、
“「女の汗ってのも艶(いろ)っぽいね」”
 何気なくそう言ったとき、
“その言葉に他の客が反応した。一瞬のことだったが男たちの気配が動いた。男はそういうものである。”

 簡素な描写にもかかわらず、これは取材や単純な想像では絶対に書けない一文で、こんなところにも伊集院さんの人生が偲ばれる。

浅草のおんな
伊集院 静・著

定価:588円(税込) 発売日:2013年07月10日

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