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詩をつかまえる

詩をつかまえる

文:阿部 公彦

文學界5月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

『しをかくうま』(九段 理江)

 九段理江とは何者なのか?

 わずか一年の間に芸術選奨文部科学大臣新人賞(『Schoolgirl』)、野間文芸新人賞(『しをかくうま』)、芥川賞(『東京都同情塔』)と立て続けに三つの文学賞を受賞し、彗星のごとく、あるいは駿馬のように現れた作家。作品には朗らかに挑発的・挑戦的なところがあり、つんけんとまでは言わないまでも、「オレ、どこか読めていない?」と哀れなる読者を追い詰める気配はある。それでいてうっとり甘いような一節もないではない。かと思うと、つい口元に変な「への字笑い」を浮かべそうになる、意表をついた脱線やひねりもある。

 とりわけ『しをかくうま』は、駿馬のごとき作家の持ち味が存分に発揮された作品である。文章は構えはしっかりしているが骨張ってもおらず、筋肉は張りがあってかつ柔軟。そうした要素が疾走感につながり、読者はつねに振り落とされ気味だが、不思議と走りすぎることもない。コントロールが効いている。

 九段理江を知る手がかりはこの「コントロール」にありそうだ。奔放に疾走しながらも、走路への奇妙な偏愛がある。たとえば「東京都同情塔」というタイトルにも見られるように、九段の世界には同語反復の誘惑が仕組まれている。〈とーきょーと・どーじょーとー〉。このどこか人を食った原始的トートロジーの裏にあるのは、ロジックのピストン運動が生み出す乾いたノンセンスと、それに加えてのいずれ狂気すれすれの領域にまで私たちを連れて行きそうな言葉や規則の細部へのこだわりである。そうだ! と思い出す。これはルイス・キャロルだ。そしてエミリー・ディキンソン。ジョナサン・スウィフト。彼らの世界には、過剰なまでの明瞭さと、論理の遊びと、得体の知れない生理的な部分へのこだわりがあった。

 高山宏は言う。「キャロルの一生は、宗教的な内面からの不断の告発の声との闘いでもあったと思われる。規則というのは、それによって縛られるべき内部の何やらどろどろした(・・・・・・)欲望とか自己破壊衝動とかに対して、それをあらかじめ悪魔祓いしておこうという知恵なのではなかろうか」(『アリス狩り』)。

 悪魔祓い。奔放で挑発的なようでいて、どこか律儀なほどに執念深い九段の言葉との付き合い方には、たしかに遠く悪魔祓いにも通ずる儀式めいた香りがする。読者も必ずやそれを感じているはずなのだが、つい間違えてそうした臭気を振り払ってしまう。まさかねえ、とばかりに。

 でも、振り払わなくてもいいのだ。なぜなら、そこには、詩があるから。

「競走馬の名前って、なんかアレだよね~」くらいのことはどんなに凡庸な私たち読者だって、思うだろう。しかし、私たちが凡庸なのはそこで終わるところにある。ウマ名前の奇妙さに徹底的にこだわり、そこから「神秘」をもぎりとって、ウマ名前の詩学にまで踏み込んでしまう作家九段。信じられないことに、そこから十文字名前の競演が生まれたりする。エミリーディキンソン チャールズダーウィン フリードリヒニーチェ リヒャルトワーグナー マーガレットサンガー……と原稿用紙何枚か分を使って九十九個も十文字名前を並べるこの倒錯は何なのか。

 忘れてはいけないのは、数や数えるという行為は悪魔祓いの基本だということだ。むろん、数えることの詩学にもつながる。ホイットマンのカタログ手法にしても、一種の数え上げである。ただ、九段はいわゆるロマン派的な自己耽溺からは距離を置く。同じ隠喩でも自己に酔い、自らの足場を揺るぎなくするものではなく、どこか散開していくもの。とらえどころのないもの。こんな例がある。「ヒは幼いころに、死んだ仲間の頭を叩き割って中身を見てみたことがあった。後に君たちが脳とか脳髄とか呼ぶことになるそれの中身は、ぬめぬめした幼虫がひしめいているみたいに見え、だから頭が痛むときは中で幼虫が這いずっているのだろうとヒは考えていた。そして自分の中にいる幼虫とは違い、ビの頭の中の幼虫は成長して蚊になっているために、話はでたらめに飛びまわり、一度飛んだら元の地点に戻って来ることがなくひとつの議題を深められないのだ」。

『しをかくうま』の運動感覚は、でたらめに飛びまわる蚊のイメージを持ち出した作家の、その比喩の流儀によくあらわれている。隠喩というよりは換喩に近いものだ。ロマンチックなウエットさはない。じわっと湿り気のある美しさよりも、小説を通し一貫してテーマ化される「順番」の美。ドライなシンタクスの快楽である。

 順番から力を得る詩がここにはある。動かない安住の地に到達するよりも、つねにせわしなく順番的であるという事態が保持される。九段理江の詩学では、この順番的な躍動をそのまま生き直すことが悦びに直結する。

 競馬実況者と馬との関係は、小説家と詩の関係とパラレルではないだろうか。実況する「わたし」は長さや呼吸や順番など、詩を構成するあらゆるものにこだわることで、馬という詩をとらえようとする。しかし、そうやって詩をとらえよう語ろうとする時点で、詩そのものにはなりえない。それは現代人の宿命だ。名前、数字、順番と、詩への入り口はあちこちに潜む。悪魔祓いの誘惑はたっぷりなのだ。しかし「九段理江とは何者なのか?」との戸惑いにも表れているように、私たちはどこか詩から引き剥がされてもいる。

『しをかくうま』は散文世界で詩をどう活かすかの挑戦である。このウマ愛は、一八世紀を代表する散文精神の持ち主ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』第四篇のウマの国を思い出させる。散文性の具現者ガリヴァーに、詩を突きつけ人間からの解放を夢想させてくれたのはウマだった。馬のエキスパートたる古井由吉は、とりわけ晩年は、「文学は所詮詩文ですからね」と言い放ち、韻文と散文の境を行き来しながら、じわじわと闇に踏みこんでいった。九段は精緻な悪魔祓いの技術を極めつつ、散文とどう付き合うのか。「夜を眼にして横に倒れて走る木の獣」がいったいどこに向かうのか、儀式の香りに鼻をきかせながら見届けたい。


(初出 「文學界」2024年5月号

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