スペシャルドラマ「坂の上の雲」
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文春ムック
坂の上の雲 各巻紹介
日露戦争を勝利に導いた秋山好古・真之兄弟 俳句改革に命をかけた正岡子規。 伊予松山出身の三人を中心に、明治という時代の明暗と、近代国家誕生にかけた人々の姿を描く不滅の国民文学
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坂の上の雲 一
維新で賊軍とされた伊予・松山に、三人の若者がいた。貧乏士族の長男で風呂焚きまでした信さん(後の秋山好古)、弟で札付きのガキ大将の淳さん(真之)、その竹馬の友で怖がりの升さん(正岡子規)である。三人はやがて、固陋なる故郷を離れ、学問・天下を目指して東京に向かう。しかし、誰が彼らの将来を予見できただろうか。一人は日本陸軍の騎兵の礎をつくり、一人は日本海大海戦を勝利にみちびき、さらに一人は日本の文学に革命を起こすことになるのである。
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坂の上の雲 二
戦争が勃発した……。世界を吹き荒れる帝国主義の嵐は、維新からわずか二十数年の小国を根底からゆさぶり、日本は朝鮮をめぐって大国・清と交戦状態に突入する。陸軍少佐・秋山好古は騎兵を率い、海軍少尉・真之も洋上に出撃した。一方、正岡子規は胸を病みながらも近代短歌・俳句を確立しようと、旧弊な勢力との対決を決意する。
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坂の上の雲 三
日清戦争から十年——じりじりと南下する巨大な軍事国家ロシアの脅威に、日本は恐れおののいた。「戦争はありえない。なぜならば私が欲しないから」とロシア皇帝ニコライ二世はいった。しかし、両国の激突はもはや避けえない。病の床で数々の偉業をなしとげた正岡子規は、戦争の足音を聞きながら。燃えつきるようにして逝った。
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坂の上の雲 四
明治三十七年二月、日露は戦端を開いた。豊富な兵力を持つ大国に挑んだ戦費もろくに調達できぬ小国……。秋山好古陸軍少将の属する第二軍は遼東半島に上陸した直後から、苦戦の連続であった。また、連合艦隊の参謀・秋山真之少佐も、堅い砲台群でよろわれた旅順港に潜む敵艦隊に苦慮を重ねる。緒戦から予断を許さない状況が現出した。
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坂の上の雲 五
強靭な旅順要塞の攻撃を担当した第三軍は、鉄壁を正面から攻めておびただしい血を流しつづけた。一方、ロシアの大艦隊が、東洋に向かってヨーロッパを発航した。これが日本近海に姿を現わせば、いま旅順港深く息をひそめている敵艦隊も再び勢いをえるだろう。それはこの国の滅亡を意味する。だが、要塞は依然として陥ちない。
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坂の上の雲 六
作戦の転換が功を奏して、旅順は陥落した。だが兵力の消耗は日々深刻であった。北で警鐘が鳴る。満州の野でかろうじて持ちこたえ冬ごもりしている日本軍に対し、凍てつく大地をとどろかせ、ロシアの攻勢が始まった。左翼を守備する秋山好古支隊に巨大な圧力がのしかかった。やせ細った防御陣地は蹂躙され、壊滅の危機が迫った。
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坂の上の雲 七
幕各地の会戦できわどい勝利を得はしたものの、日本の戦闘能力は目にみえて衰えていった。補充すべき兵は底をついている。乏しい兵力をかき集めて、ロシア軍が腰をすえる奉天を包囲撃滅しようと、日本軍は捨て身の大攻勢に転じた。だが、果然、逆襲され、日本軍は処々で寸断され、敗走する苦境に陥った。
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坂の上の雲 八
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。明治三十八年五月二十七日早朝、日本海の朝靄の中にロシア帝国の威信をかけたバルチック大艦隊がついにその姿を現わした。国家の命運を背負って戦艦三笠を先頭に迎撃に向かう連合艦隊。大海戦の火ぶたが今まさに切られようとしている。感動の完結篇。
登場人物紹介
『坂の上の雲』には千人を超える人物が登場します。その中から主な人物を抜粋しました。
主人公とその周辺
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正岡子規 1867〜1902(慶応三〜明治三十五)
日本を代表する俳人。短歌や随筆、評論なども創作し、日本の近代文学に大きな影響を与えた。真之の一年年上ながら小学校から中学、大学予備門まで同学年。その後、真之は中退して学費のかからない海軍兵学校へ。子規も肺結核を発病後、帝国大学文科大学国文科を中退して新聞記者へと、二人は別々の道を歩むことになった。子規は、寝たきりになってからも、門人の高浜虚子や河東碧梧桐らが、口述筆記するなどして創作活動を続けた。無宗教で、戒名も「無用に候」「葬式の広告など無用に候」。本人が書き残した墓誌は、「月給四十円」と結んでいる。
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秋山好古 1859〜1930(安政六〜昭和五)
日本陸軍の騎兵の父。伊予松山藩で貧しい徒士の子として生まれた。陸軍士官学校で偶然に専攻したのが騎兵科。当時、ロシアには脅威が二つあり、そのひとつが世界最強といわれたコサック騎兵集団だった。それに対して好古は、機関銃を備えた騎兵を中心とし、歩砲工三兵科を含めた機動集団を構成。敵騎兵には拠点式陣地で撃破した。奉天会戦でロシア軍の敗因を作ったのは、秋山支隊の牽制活動だったといわれる。陸軍大将を退役後、帰郷して私立中学の校長に。晩年、手術で昏睡状態に陥った時に叫び続けたうわごとは「奉天へ」。
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秋山真之 1868〜1918(慶応四〜大正七)
日本海海戦における連合艦隊の先任参謀、中佐。ロシアのもうひとつの脅威である海軍の主力艦隊を破ったのが、好古の弟の作戦だった。バルチック艦隊に対し、敵前回頭に続くT字戦法で、敵艦隊の先頭をゆく旗艦や戦艦を叩き、さらに七段構えの作戦などは、真之がことごとく描いた。それ以前も、旅順閉塞作戦を具申し、旅順港にいる旅順艦隊攻撃の盲点が二〇三高地であることを最初に発見。不世出の作戦家を、連合艦隊司令長官東郷平八郎は、「智謀湧くがごとし」と評した。「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という日本海海戦を前にした文学的な電文の起草者としても知られる。のち中将。
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広瀬武夫
海軍少佐(戦死して中佐)。文部省唱歌「広瀬中佐」に歌われた日本初の〝軍神〟。旅順港第二次閉塞作戦で、二番船福井丸を指揮。敵の魚雷を受け、ボートで脱出しようとした瞬間、広瀬の身体を砲弾が飛び抜けた。海軍兵学校から真之と親しく、真之の母・貞は広瀬をわが子のように可愛がった。ロシア駐在時代の恋人・アリアズナとの純愛も伝わる。
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秋山季子
真之の妻。宮内省御用掛・稲生真履の三女。明治36年6月結婚。この時、少佐だった真之は36歳、季子は21歳。媒酌人は侯爵佐佐木高行。新婚当時、友人からの祝いの手紙が届いても、真之は「自分は、海軍を一生の大道楽とおもっている」と決意を述べ、「にわかに素志をまげて妻定めをしたのはほんの鬱(うさ)晴らしである」と結婚観を記している。
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正岡 律 1870〜1941(明治三〜昭和十六)
子規の三つ年下の妹。兄がけんかをして帰ると、「兄《あに》ちゃまの仇」と言葉を吐いて、石を投げに行った。二十歳で旧家に嫁いだが、のちに帰る。松山から上京後、献身的に兄の看護をした。子規の死後、神田の共立女子職業学校に入り、卒業後は母校の事務員、のち教師に。
日本陸軍・日本海軍
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児玉源太郎 1852〜1906(嘉永五〜明治三十九)
日露戦争時の満洲軍総参謀長。日露戦争で陸軍の作戦を立てた不世出の作戦家。長州藩支藩の徳山藩出身。陸軍大学のメッケル参謀少佐は、日露開戦を知ると、「日本には児玉がいる。かれが存在するかぎり日本陸軍の勝利はまちがいない」と新聞記者に語った。旅順包囲戦で、乃木大将の了解を得て、攻撃計画の修正を徹底。その直後、二〇三高地を攻略し、旅順港の旅順艦隊を撃滅。そのすべてを乃木の功績にした。心労が重なり、終戦から八か月後、脳溢血で急死。
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乃木希典 1849〜1912(嘉永二〜大正元)
満州軍第三軍司令官、大将。長州藩支藩の長府藩出身。旅順攻囲戦では、二〇三高地の攻略要請を無視し、旅順の近代要塞を前に、銃剣突撃による正面突破を続けさせた。満州軍総参謀長児玉源太郎は、乃木の承諾を得て作戦を変更。そして、日本軍は二〇三高地を占領。頂上に着弾観測班を配置し、山越え砲撃により、旅順港内の旅順艦隊を壊滅させた。第三軍は、その後、奉天会戦でオトリに。息子二人は旅順攻囲戦で戦死。明治天皇大葬の夕、乃木は妻静子とともに自刃した。
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東郷平八郎 1848〜1934(弘化四〜昭和九)
日本海海戦を大勝した連合艦隊司令長官、大将。緒戦の仁川沖海戦から黄海海戦と勝利をおさめ、旅順艦隊を旅順港に封じ込めて撃破。日本海海戦では、艦隊を単縦隊にし、敵前回頭に続くT字戦法により、最初の三十分で大勢を決した。さらに七陣の構えで、同艦隊を壊滅させ、ロジェストウェンスキー司令長官も捕虜にした。「東洋のネルソン」と呼ばれる。薩摩藩出身。のち元帥。
ロシア陸軍・ロシア海軍
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アレクセイ・クロパトキン 1848〜1925(嘉永元〜大正十四)
満洲軍司令官、大将。沙河会戦後、極東総督アレクセーエフは解任され、クロパトキンが極東陸海軍総司令官に。「戦略的退却」をしながら大反撃を考えていたが、すべての戦いで敗れた。別名「退却将軍」。ロシア軍の敗因は、クロパトキンの個性と能力に起因。革命の際に逮捕投獄されるが、危険人物とは見なされずにすぐに釈放された。
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ジノヴィ・ロジェストヴェンスキー 1867〜1902(慶応三〜明治三十五)
バルチック艦隊司令長官、中将。バルチック艦隊を極東回航させ、旅順艦隊と合同させることを皇帝に進言。日本海海戦で、砲弾により足を負傷。駆逐艦で逃亡中、日本の駆逐艦に捕獲され捕虜になる。東郷司令長官が佐世保海軍病院に見舞いに来た時、「私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます」と答えた。軍法会議にかけられたが無罪。
関連書籍
弊社刊行の雑誌、書籍などでも『坂の上の雲』を取り上げた作品が多数存在します。あわせてお楽しみください。
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『殉死』司馬遼太郎
日露戦争における旅順攻囲戦で苦闘した第三軍司令官、陸軍大将・乃木希典。戦後は数々の栄誉をうけ神様と崇められた彼は、なぜ明治帝の崩御に殉じて、自らの命を断ったのか? 軍神の人間像に迫る。
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『この国のかたち 一』司馬遼太郎
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の原作の一つ。日本は特別な国ではないが、説明が必要な側面があると説く。日本の歴史を深く掘り下げ、数々の名作を生み出してきた著者が、日本人という存在を明快に分析する。
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『この国のかたち 二』司馬遼太郎
日本人の行動や思考の根底に流れる文化的な型を抽出し、その本質を探求する。様々な歴史の情景から夾雑物を洗い流し、その核となるものに迫り、日本人の本質とは何かを問いかける。確かな史観に基づく、卓越した評論。
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『この国のかたち 三』司馬遼太郎
革命を経た国は傲慢になりがちだ。特に、自国の価値観を他国に押しつけようとする点で、明治日本は他のアジア人にとって不快な存在だっただろう。この国の歴史を深く掘り下げ、日本人の特徴と普遍的な本質を探求する。
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『この国のかたち 四』司馬遼太郎
昭和前期、日本を滅亡の淵にまで追い込んだ軍部の暴走の影には、「統帥権」という魔物がいた。この国の行く末を最後まで案じ続けた作家が、無数の歴史的事実から、日本人の本質を抽出し、未来への真の指針を探る思索のエッセンス。
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『この国のかたち 五』司馬遼太郎
神道や朱子学はわが国の精神史にいかなる影響を与えたか。さまざまな角度から歴史における日本文化の特殊性を分析・考察する司馬史観の集大成ともいうべき歴史評論集。竜馬、松陰等を語った「人間の魅力」も収録。
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『この国のかたち 六』司馬遼太郎
絶筆となった「歴史のなかの海軍」の他、書き言葉としての日本語の成り立ちを考察した「言語についての感想」「祖父・父・学校」などの随想、講演記録「役人道について」を収録。日本の未来に警鐘を鳴らし続けて逝った、不世出の作家の白鳥の歌。
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『ロシアについて』司馬遼太郎
この巨大な隣国をどう理解するか。「交渉がはじまってわずか二百年ばかりのあいだに、作用と反作用がかさなりあい、累積しすぎた」。ロシアに深い関心を持ち続けてきた著者が、歴史を踏まえたうえで、未来を模索した秀逸なロシア論。
著者プロフィール
大正12(1923)年、大阪市に生れる。大阪外国語学校蒙古語科卒業。
昭和35年、「梟の城」で第42回直木賞受賞。
41年、「竜馬がゆく」「国盗り物語」で菊池寛賞受賞。47年、「世に棲む日日」を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。51年、日本芸術院恩賜賞受賞。56年、日本芸術院会員。57年、「ひとびとの跫音」で読売文学賞受賞。58年、「歴史小説の革新」についての功績で朝日賞受賞。59年、「街道をゆく“南蛮のみち(1)”」で日本文学大賞受賞。62年、「ロシアについて」で読売文学賞受賞。63年、「韃靼疾風録」で大佛次郎賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、文化勲章受章。著書に「司馬遼太郎全集」「司馬遼太郎対話選集」(文藝春秋)ほか多数がある。平成8(1996)年没。