玉那覇正吉と沖縄の歴史
物語の歴史
太平洋戦争で地上戦が行われ、荒土と化した沖縄。その那覇市首里に、ニシムイ(北の森の意、首里城の北に位置した)と呼ばれた小さな美術村がかつて存在しました。そこでは、のちに沖縄画壇を代表することになる玉那覇正吉、安次嶺金正、安谷屋正義、具志堅以徳といった画家たちが、アトリエ兼自宅の小屋を作り、肖像画や風景画などを売って生計を立てながら、同時に独自の創作活動をしました。 『太陽の棘』は、その史実を基に、画家たちと交流を深めた若き軍医の目を通して、彼らとの美しき日々を描いた感動の長編です。彼らは、いかに生き延び、美術に向き合い、取り組んだのか。そして、大戦の傷跡のなか、日本とアメリカの狭間で揺れる沖縄。また、困窮する生活と、創作活動の両立という困難。さまざまなモチーフが絡み合うそれらは、まさに沖縄の太陽のように身を焦がし、突き刺さる「棘」として、心を強く揺さぶります。
年表
本作のモデルとなった玉那覇正吉の生い立ちと沖縄の歴史や世界の動きを年表形式にまとめました。年号が赤いものが生い立ち、青のものが歴史です。
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【参考文献】琉球文化アーカイブ、「移動と表現」展パンフレット
- 1918
- 1932
- 1933
- 1936
- 1937
- 1940
- 1940
- 1941
- 1945
- 1945
- 1946
- 1946
- 1948
- 1949
- 1949
- 1950
- 1950
- 1952
- 1954
- 1957
- 1957
- 1958
- 1969
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1918
父玉那覇正ゴ※、母ツルの二男として那覇に生まれる ※ゴはにんべんに吾
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1932
満洲国建国
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1933
国際連盟脱退
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1936
沖縄県立第一中学校を卒業後、東京にある川端画学校洋画部に入学
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1937
盧溝橋事件、日中戦争開戦
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1940
川端画学校を卒業し、東京美術学校(今の東京芸術大学)彫刻科塑像部に入学。在学中に第3回 直土会展に出品、彫刻「老爺像」「Y子の首」で初入選を果たす
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1940
日独伊三国同盟条約に調印
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1941
太平洋戦争開戦
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1945
海軍航空本部嘱託美術家として第2相模野海軍航空隊、仙台第706海軍航空隊に所属するも同年8月終戦により同隊を退職
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1945
4月より沖縄に上陸の米軍に追い詰められ、6月、第32軍司令官牛島満、長勇自決。8月沖縄戦の組織的抵抗終息。太平洋戦争終戦。沖縄の日本軍、無条件降伏に調印
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1946
北緯30度以南の南西諸島、GHQ指令で日本から行政分離。4月、沖縄中央政府創立(のちに民政府に改称)
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1946
4月、米軍政府によって文化部芸術課が石川市東恩納に設立。同年10月、玉那覇は終戦後に就職していたみどりや百貨店宣伝部を退職し、帰郷する
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1948
米軍文化部芸術課解散に伴い、首里にニシムイ美術村が誕生。12月には9人の作家が移住し、ほぼ完成した。
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1949
第1回沖縄美術展が開催。この年の10月、リビー台風が襲来し、ニシムイ美術村はほぼ全壊する
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1949
本土-沖縄間の渡航が、許可制で制度化
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1950
朝鮮戦争勃発。琉球軍政府、琉球列島米国民政府に改称
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1950
「五人展」結成。玉那覇の他、同人に具志堅以徳、金城安太郎、安次嶺金正、安谷屋正義。8月には第1回「五人展」開催。9月、グローリア台風襲来、ニシムイ美術村に甚大な被害
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1952
琉球政府発足。サンフランシスコ講和条約発効、南西諸島の日本分離が決定
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1954
第7回「五人展」開催後、五人展を解散
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1957
ひめゆりの塔「百合の花」浮彫を製作
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1957
この年、本土への集団就職が始まる。1958年には第4次通貨交換が実施され、B円からドルへ移行された
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1958
1955年から非常勤講師として勤務していた琉球大学文理学部美術工芸科の講師に就任、のち助教授、教授になり、1984年に定年退職するまで勤めあげた
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1969
日米首脳会議で、72年の沖縄返還が決定
関連リンク
- 沖縄県立美術館 沖縄画壇の今やそのほかの作家について知ることができます。
- ●沖縄戦後美術の開始「ニシムイの時代」[PDF]
- ●沖縄美術の流れ
- ●作家紹介
- NHK 日曜美術館 ニシムイ 沖縄・知られざる美術村