2012.06.21 書評

青山文平という可能性………
『白樫の樹の下で』から『かけおちる』へ

文: 島内 景二

『かけおちる』 (青山文平 著)

 青山文平は、遅れてきた麒麟児である。この60歳を超えた新人は、自ら考案し改良を重ねた文体を引っ提げて、時代小説の門を敲(たた)いた。贅肉を削ぎ落とし、引き締まり、無限の余情に富む文体は比類がない。彼はどんな心境で、秘剣にも似た、斬れ味抜群の筆を振るうのか。そして、彼が斬らねばならない敵は、誰なのか。

 デビュー作は、平成23年に第18回松本清張賞を受賞した『白樫の樹の下で』。第1作らしい清新さと、第1作とはとても思えない手練(てだ)れの表現力とが、見事に調和していた。読者は、新しい時代小説の扉が開かれたことを喜んだ。

 さもあろう。青山文平とは、平成4年に、第18回の中央公論新人賞を受賞し、選考委員の吉行淳之介を唸らせた影山雄作の第2の名前なのだ。青山文平が、前世である影山雄作の時代に、どんな志を燃やして純文学の戦場で戦ったのか、残念ながらここで語る余裕はない。喩えれば、影山雄作は中島敦の『山月記』に登場する李徴のような文学者だったのではないか。李徴は、詩人としての自分の才能を自負していたが、大成できなかった。遂に人を食い、月に吠える虎に堕した。

 だが影山雄作は、人を食う虎にはならず、人が人を斬る意味を問いかける時代小説を書き、青山文平へと転生した。彼は純文学という虎口に飽きたらず、意を決して時代小説という龍穴に飛び込んだのだ。

『白樫の樹の下で』は、江戸時代中期の天明八年(1788)が舞台である。ヨーロッパではフランス革命の前夜。日本でも社会的矛盾が露呈しつつあった。矛盾だらけで、何事かが起ころうとしつつ何事もまだ起きていない現代日本の鏡像を、この時期に求めた戦略が成功している。永く経済ジャーナリズムに携わってきた青山の冷徹な視線と鋭い嗅覚を感じさせる。

 まだ戦乱の記憶の残る江戸時代初期でもなく、幕末の動乱へと向かう江戸時代後期でもない天明の頃、「士農工商」の身分秩序の頂点に立つ「武士」は、平和の中でもがいていた。武士の魂である「刀=真剣」を振るって人を斬る機会は、ほとんど無い。軍事集団であった武士は、統治組織としての文官へと組み換えられた。そして、負け戦が自明の、貧困や借金との戦いに従事させられた。

 大小二振りの剣こそは、矛盾の塊であり、混乱する価値観の象徴だった。この矛盾に、青山は着眼した。理念と現実の大きな落差が、若者たちの向上心のモチベーションともなれば、悲劇のエネルギーともなる。天明期にこそ、「自分とは何か」も「自分と世界との関わり方」も見失った現代日本の縮図があると、青山は直感した。

 だから青山は、二代続けて「小普請組(こぶしんぐみ)」(無役)という、武士とも言えない武士の家に生まれた若者たち3人を登場させて、彼らに生きる意味を探求させた。白樫の樹がシンボルツリーである剣の道場に集った一心同体の3人の若者たちの人生は、いつしか3つに分岐する。青山の世界認識は、単純なハッピーエンドを許さない。彼は、自分の作品に登場する人物を決して甘やかさないのだ。矛盾は、最後まで矛盾のままで残る。そこが、藤沢周平『蝉しぐれ』との違いである。

 人間の世界には、ハードウエアとソフトウエアがある。幕府や藩の統治組織、剣の指導方法、各人の信念などは、ソフトウエアの最たるものだ。ハードウエアは、役所・道場・肉体であろうか。青山文平にとっては、時代小説というジャンルが、改良の必要に迫られているハードウエアに当たる。青山文平の時代小説が、これまでのどの作品とも似ていないのは、独自の文体と歴史認識というソフトウエアの新しさで、21世紀の世界情勢の変化に適応しにくくなっていた時代小説というハードウエアを新しくしたことに尽きる。

『白樫の樹の下で』は、人間が真剣を抜いた時に、想像もつかなかった自分が姿を現す衝撃を描いている。「蓋(ふた)」が勝手に開く恐怖や、あえて蓋を開かねばならぬ決断の時が、人生には訪れるのだ。登場人物が自分の心の蓋を取り払って、矛盾を外部へと放出し、そのエネルギーのもたらす混沌の嵐に身を任せれば、作者と読者の心の蓋も吹っ飛び、時代小説というジャンルの約束事や制約も消滅する。青山文平は、あえて「時代小説」というパンドラの箱を開けたのだ。

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かけおちる
青山文平・著

定価:1470円(税込) 発売日:2012年06月20日

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