2012.09.05 書評

ナチスのスパイだった! 異色の評伝

文: 赤根 洋子 (翻訳家)

『誰も知らなかったココ・シャネル』 (ハル・ヴォーン 著  赤根洋子 訳)

 ココ・シャネルについては、これまで数え切れないほどの数の伝記が書かれてきた。しかし、彼女の長い人生の中で、こうした伝記が描いてこなかったことがある。それは、第2次大戦中の彼女の行動である。

『誰も知らなかったココ・シャネル』は、従来の伝記が素通りしてきたこの時代に光を当て、「シャネルがナチスのスパイだった」ことを暴き出した異色のシャネル伝である。

 その証拠を見つけたのは全くの偶然からだった、と著者ハル・ヴォーンは言う。フランスの公文書館で別の人物のリサーチをしているときに、埃(ほこり)をかぶったファイルの中からフランス警察の報告書を発見した。そしてそこに、ドイツ軍情報部のエージェントとしてシャネルの名が、エージェント番号及びコードネームとともに記載してあったのだ、と。

 著者がリサーチしていた別の人物とは、ハーバート・グレゴリー・トーマス。第2次大戦のさなかにシャネルNo.5の製造販売権所有者であるユダヤ人企業家ヴェルテメール一族のためにドイツ占領下のパリに潜入、香水の原料をとり返した男である。CIAの前身OSSで働いたこともあり、戦後はシャネル社の社長に就任したユニークな人物である。彼の大活躍を、著者は本書でも共感を込めて実に生き生きと描き出している。それもそのはず、著者自身の経歴もなかなかユニークなものなのである。

 著者ハル・ヴォーンは、1928年生まれのアメリカ人ジャーナリストだが、冷戦時代、アメリカ国務省海外勤務職員としてカラチやジュネーブなどで秘密情報活動に携わり、CIAの作戦の数々に関わっていた。つまり、「スパイ活動」の経験あり、ということである。

 著者はフランスの諜報機関の報告書なども駆使して証拠固めをおこなっているが、これらの史料は、パリ占領時にナチスドイツによってフランスからベルリンに持ちだされていたものだった。これが1945年のベルリン陥落時にソ連の諜報機関によってモスクワに移され、1985年までそこで眠っていた。同年のソ連とフランスの協定によって、多くの奪取文書がフランスの軍事公文書館に返還された。著者は、この軍事公文書館でこれらの文書を発掘したのである。

 本書は、憶測を差し挟むことなく、あくまで証拠に基づいてシャネルの第2次大戦中の対独協力を検証し、再現している。また、シャネルの大戦中の愛人、ドイツ人将校フォン・ディンクラーゲ男爵の正体も、本書によって初めて完全に暴かれることとなった。

 彼はドイツ軍情報部の大物スパイであり、その美貌を武器に女たちに近づいては協力者や情報提供者に仕立て上げることをその常套手段としていたのである。

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誰も知らなかったココ・シャネル

ハル・ヴォーン・著 赤根洋子・訳

定価:1995円(税込) 発売日:2012年08月30日

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