2016.02.25 書評

「K坂の即決事件」とは何か?

文: 飴村 行

『粘膜黙示録』 (飴村行 著)

『粘膜黙示録』 (飴村行 著)

 自分の体験したことが異常である、と自覚したのは作家になってちょうど一年が経過した頃(二〇〇九年)だった。

 打ち合わせを兼ねての酒席で何気なく派遣工時代の話をしたところ、同席していた二名の編集者が共に驚愕し、さらに爆笑したのである。そのウケ方たるや店の女将が「何事か?」と見に来たほどで、デビュー前の苦労話、というか「こんな仕事してました」とただ話しただけの身としては戸惑うことしきりであった。

 しかしそんな僕(と遠巻きにする女将)を尻目に散々笑い倒した二人は、目尻に滲んだ涙を指先で拭いながらこうのたまったのである。

 編集A「今の日本ではあり得ない話ですね」

 編集B「(頷きながら)訴えたら勝てますよ」

 虚を衝かれた僕は絶句した。彼らの言葉はつぶてのように耳を打ち、脳をビリビリと震わせた。痺れは深部に及び、海馬も丸ごと感電した。同時に記憶庫内に沈殿していた当時の記憶が一斉に蘇り、脳裏の暗闇に次々と映し出された。

 僕は思わず息を呑んだ。自然と身構えるような気分になり、眉間に皺を寄せた。空のグラスを持ったまま椅子に凭れ、眼前の虚空を凝視した。

 今まで「当然」「常識」あるいは「こんなもの」だと思い込んでスルーしていた事柄が全て常軌を逸脱した不法行為だったのか……?

 そう思った途端、背筋を冷たいものが刺し貫いた。

 僕「(取り乱して)うわうわうわうわ、こわいこわいこわいこわい」

 編集A「分かります、その感じ」

 編集B「(頷きながら)たら、れば、で考えると怖さが倍増するパターンですね」

 女将「(遠巻きにしながら)そろそろラストオーダーですけど……」

 デビュー前の『苦労話』が、現代版『蟹工船』に変異した瞬間だった。

 不意に三十代後半の、髪をオールバックにした長身痩躯の男が眼前に浮かんだ。

 それは一九九七年当時、大宮駅西口の雑居ビルにあった某派遣会社に於いて面接を担当していた社員だった。

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粘膜黙示録
飴村行・著

定価:本体650円+税 発売日:2016年02月10日

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