妙なタイトルだな――そう思われる方も多いのではないか。本書では戦後まもない下山事件から足利市の菅家さんの冤罪(えんざい)など30の事件が取り上げられている。「未解決事件」と言っても、犯人はすでに特定されている事件も含まれている。「真犯人を知っている」も何も、自殺や病死など犯罪ではない事例も取り上げられている。
どこが未解決なのか。いったい誰が「犯人」と言うのか……。そんな疑問が湧いてくるのももっともだ。
ただ、自殺や突然の病死も、近しい人にとっては「事件」に他ならない。誰かに命を奪われた犯罪であればなおのこと、人々は事件の「真相」を求める。しかし、それがなかなか難しい。
人が突然亡くなれば、自殺や病死の場合でも、警察がやってきて事件性の有無を調べる。刑事事件ということになれば、捜査が展開される。首尾(しゅび)よく被疑者が逮捕されれば、捜査を遂げて裁判となり、そこで有罪判決が確定すれば、一件落着。事件の「真相」解明の作業は終了する。
しかし、捜査や裁判で、すべての人が納得する「真相」が明かされるわけではない。被告人が語る事件の「真相」を、検察も裁判所も認めたとしても、遺族が納得するとは限らない。被害者の身内の方には、少しでも被害者の側に落ち度があったかのような加害者側の主張は受け入れがたい、ということがしばしばある。亡くなった者の名誉を守りたいと思うのは、当然の心情だろう。そういう遺族にとっては、たとえ判決で事実関係が詳細に認定されたとしても、未(いま)だ「真相」は解明せず、悶々(もんもん)としたまま日々を過ごさなければならない。
そういう関係者の話を聞くと、私はどう反応していいのか分からなくなる。そういう経験を何度かしているうちに、「真相」はその事件に関わりを持つ人の数だけあるのかもしれない、と思うようになった。
私たちはよく、裁判に「真相」の解明を求める。私も、オウム裁判の傍聴を始めた時はそうだった。けれども、傍聴を重ねると同時に、事件関係者の生の声を聞いているうちに、「真相」とは裁判を通じて解明されるものではなく、関係者一人ひとりにとっての「真相」を集めていくことで、私にとっての「真相」に近づいていくしかないのではないかと思うようになった。
また、社会や被害者にとって「真相」の解明は終わったとしても、やってもいない事件の犯人とされた冤罪被害者にとっては、「真相」はいつか明らかにされなければならないものであって、事件は未解明だ。仮に、裁判所で無罪判決が言い渡されても、事件は終わりにならない。それではなぜ、自分が濡れ衣を着せられることになったのかを知りたい、と思うのは、これまた当然の人情だ。
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『リーダーの言葉力』文藝春秋・編
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