2014.08.11 書評

『シモネッタのアマルコルド』解説

文: 内田 洋子 (ジャーナリスト)

『シモネッタのアマルコルド』 (田丸公美子 著)

 緊張して、眠れない。いよいよ明日、観光バスに乗る。

 訪問地は日本国内だというのに、私にとって未踏の地ばかり。関西の育ちなので、東京のことすらよく知らない。これが友人といっしょの旅行なら、どれほど楽しい気分だったろう。

 旅の連れは、イタリアからの団体なのだった。

 今から三十年あまり前の話である。

 大学の学生課の掲示板で、バイト募集を見つけた。

『イタリア語通訳のバイト求む(ただしアシスタント)』

 まだ入りたてか、二年目の頃だったか。東京外国語大学イタリア語学科に通っていた私は、文法は何とか一通りさらったものの、実際にイタリア語を使ったことがなかった。

「うちの大学は、外国語の会話学校ではありませんのでね」

 入学初日に主任教授は淡々と告げ、翌日から三ヶ月で文法を駆け抜けると、分厚い思想史の原著を配り、

「秋までに予習をしておいてください」

 と、夏休みに入った。

 字面のイタリアは難解で、遠い異国のままだった。

〈このバイトをすれば、生のイタリア人を間近に見ることができる〉

 私は行く、私は持つ、といった動詞のイロハを反芻しながら、募集先に面談に行った。

「イタリア全土から集まった、二、三十名の観光案内です。ベテランのチーフ通訳に同行し、補佐するのがあなたの仕事です」

 大手旅行会社の担当者は概略を説明し、集合時刻と場所を告げた。

 初めてのイタリア語実践に緊張しすぎて眠れず、あろうことか私は翌朝の集合時間に遅刻した。

 大慌てで着いた集合場所には、すでに大勢のイタリア人がいた。

 全旅程バスでの移動だというのに、どの人も祝宴に呼ばれていくような洒落た装いである。手入れの行き届いた革靴は、ジャケットの袖口から覗く、腕時計の皮のベルトと揃っている。横の女性は、大きなフレームのサングラスを額の上に持ち上げて、長い髪をさりげなく押さえている。耳元には、凝った細工のピアスが揺れている。アンティークか。

 全員があちこち好き勝手な方角を向き、煙草をふかしたり、連れ合いとしゃべったり、カメラを構えたりしている。どの人の仕草も、身繕い同様やや過分で目を引くが、悠然として美しい。

 生のイタリア人たちを前に、ヘマも忘れて陶然としている私に、

「では、よろしくお願いしますね」

 目力を込めて、声を掛ける人がいた。

 田丸公美子さん。

 以来、私はこの日のことを忘れたことがない。

【次ページ】

シモネッタのアマルコルド
田丸公美子・著

定価:本体580円+税 発売日:2014年07月10日

詳しい内容はこちら