――2007年に「肝心の子供」で作家デビューをされてから、『往古来今』で6冊目の著作となります。前作「赤の他人の瓜二つ」が「磯﨑さんの現時点での集大成」と評され、ご自身でも「全て出し切ったという高揚感と虚脱感」があったと「あとがき」にも書かれていますが、前作からちょうど1年後にこの連作を始められましたね。
磯﨑 デビュー以来、一貫して「時間というのは本当にとらえどころのないものだけれども、それを言葉で表現することができるとしたら、小説なのではないか」という思いで書き続けてきました。その中で次は、今までと違ったことを敢えてやってみたいと思ったんです。何かを追求するためには、同じことを繰り返していたのでは先に進めない。「赤の他人」の単行本が刊行されたのは東日本大震災の直後なんですが、その年の夏に「文學界」の担当者に会ったとき、「偉大なる失敗作を書いて下さい」という言葉をもらい、背中を強く押された感じです。
――どのあたりが、これまでの作品と違っているんでしょう。
磯﨑 僕は、事前の設計図やプロットを作ることはしません。流れに身をまかせながら、どこまで小説に忠実でいられるか――。第1作目の「過去の話」は、転調や段差をどこまで作者の意図として書かずに前へ進めるか、最初の一文からいかに深く長く潜って行けるか、その辺りを考えながら、息を止めて緊張感を押し込めて書いた感じです。
ただ「過去の話」と2作目の「アメリカ」は、たぶん自分はこういうことをやりたいのだろうと頭では分かっていたけれど、まだ文章がついていかない状態でした。3作目の「見張りの男」に至って、その企みを初めて自分のものにすることができた。1つ突き抜けた感がありましたね。
――「見張りの男」は、連作を通じての語り手「私」の母親が野良犬を助けるシーンから、1000年前にそこの山を治めていた領主にまつわる『吾妻鏡』の挿話に移行。「私」の友人、相撲部屋に入門して十両どまりで引退した後は地元で郵便配達をする男のエピソードが続き、最後にカフカらしき人物が登場します。
磯﨑 僕の小説、要約が馴染まないんです(笑)。ここでは『吾妻鏡』を小説の流れの中に自然な形で落とし込むことができた。郵便配達夫が蕎麦をすすりながらふいに漏らす「俺は、俺の人生に見張られているな」という言葉は、自分では説明できない、「小説の力」によって書かされたと思ってます。
芥川賞受賞作「終の住処」あたりまでは、ある程度効果を狙って、読者を驚かせようという意識が残っていましたが、この連作ではそれも自分に禁じた。常套手段に頼ろうとする誘惑に負けないぞ、と。最終篇の「恩寵」も息継ぎせず書き切った感があります。これは日本からハワイに渡った移民の話で、語り手の「私」が唯一登場しませんが、連作5篇に通底しているものは一緒。自己同一性が曖昧で、お互いに侵食しあっているという部分で、5篇全てつながっているんです。