表題作の主人公、介護施設に勤務する40代半ばの独身女性、錦田麻美は、とまらない咳の原因を調べようと訪れた病院で、食道癌、ステージIVの診断を受ける。しかし食べることに異常に執着する彼女は、治療しないどころか、食への情熱をいっさい捨てない。調理する体力がなくなっても出来合いの惣菜を大量に買い込み、飲み込めないままひたすら咀嚼する。その異様な「食」のありようを、作者は最期が近い冬の一日から、告知を受けた夏の日まで、時間を巻き戻す形で克明に描き出していく。
冒頭、唾液と汚れ物にまみれた麻美の様子はすさまじく、この後どれほど悲惨な闘病話が続くのかと不安になる。けれどそうはならない。時間が逆向きで、元気な頃の図に戻って終わるせいだろうか。笑いや、おかしなさわやかささえある。この作品で文學界新人賞を受賞した際の作者のプロフィールには、看護学科卒、「療養中」とあるが、それが語るように、作者の文には患者の実感と医療側の冷静が同居している。その上で、闘病の当事者にしか書くことが許されないようなきわどいブラックユーモアが語られている。すなわち、この作品で描かれる「癌」は、確かに食道癌なのだが、実は主人公の麻美のほうが、癌よりよほど癌らしく、怖いのだ。
麻美は周囲に「職場の癌」と言われる人間で、しかもそれが痛くもかゆくもない。他人に関心がない。友人も異性も必要ない。彼女にとって人生とは作って食べることで、他の要素はそれを維持する道具だと思っている。周囲の細胞の邪魔をしながら無限に自己を増殖させるのががん細胞だとすれば、人間としての機能を食に集中させ、あとはまわりの人間をひたすら疲弊させて生きる麻美は、社会という人体におけるがん細胞以外のなにものでもない。癌よりひどい人間性。その描写が、ほとんど痛快だ。作者本人も末期の食道癌をわずらい、闘病しながらこれを書いたと言う。とすればこれは、文字通り生死の境で、命がけで発せられたユーモアなのだ。
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