ニュージーランドで生まれ育った私は、17歳の時に留学先の日本の高校で剣道に出会った。ある日の稽古で顧問の先生に徹底的にしごかれ、極限状況に追いつめられた果てに、私は、それまでの自分が粉々に砕け散って世界と溶け合うような不思議な感覚に陥った。恐怖や苦痛、惨めさに涙を流しながらも、それは今まで味わったことのない、いわく言い難い甘美な体験だった。この強烈な体験は、人生を根底から変えてしまった。
そのときを境に私はいわば武道に身も心も奪われて、以来20数年、剣道をはじめとする武道の修行を続けてきた。現在、剣道7段、なぎなた5段、居合道5段を取得している。
私のあの体験は何だったのだろうか? そもそも武道はどのように生まれ、何を志しているのか? 私は武道を追求する過程で必然的に「武士道とは何か」を問わざるを得なかった。
近年、武士道は再評価の気運にある。関連書籍は武士道を無条件に褒め称え、口々に「武士道精神の復活」を唱えている。その論調の多くは、現代日本のモラルの低下、政治・経済の混迷、男性の軟弱化などを挙げて、「今の日本に欠けているのは武士道精神だ」と声高に主張している。しかし、実際にどのように武士道精神を復活させるのかという具体的な道筋については、ほとんど言及していない。
武士道という言葉は日本人なら誰でも知っている。日本人に武道をやっていると伝えると、「ジャパニーズスピリットがわかるんだ」というコメントが必ず返ってくる。しかし、それが実のところ何を意味するのか正確に理解している日本人がどれほどいるだろうか。
「実戦」から武士道を読み直す
結論から言うと、私は自分の体験からその問いに対する答えのヒントが武道にあるのではないかと思っている。理念や精神ではなく、実際に体を使って稽古を重ねる武道を体験して初めて分かる武士道の神髄がある。だから、私はこれまで一貫して「武士道の復活」よりも「武道の復活」を訴えてきた。
武道の実践は、武士道の理解という点において極めて本質的な意味を持つ。これまでの武士道論の最大の弱点は、実際の武術や実戦に即して論じられていないということだった。多くは武士が書き残した言葉に自分なりの解釈を加えたり、忠義や礼節といった倫理的側面だけを取り上げたりして、結局のところ「武士道は日本人の精神の源流である」といった抽象論に終始しているように思う。
もちろん、武道をやれば武士道が理解できるわけではないだろう。しかし、武道に打ち込んだ人間と、そうでない人間との武士道理解はおのずと異なるのではないだろうか。私は、歳を取るに従って、また実力を付けるに伴って、たとえば柳生宗矩の『兵法家伝書』や宮本武蔵の『五輪書』といった兵法書に対する理解が深まっていくことを実感する。「ああ、武蔵が言っていたのは、こういうことだったのか」と腑に落ちる瞬間をこれまで何度経験してきたことだろう。
武道を追求しながら武士道を研究する者はごく少数だ。ましてやそれが私のような外国人となれば、その武士道理解はおのずと既成のそれとは異なってくるだろう。だから本書の最大の特長は、海外に生まれ育ち、武道を長年修行してきた武道研究者が、実践的視点から述べた武士道論ということになる。
現代の日常生活に武士道を活かす
今、日本柔道界の体罰問題に象徴されるような勝利至上主義による倫理感の低下など、武道界は数々の深刻な問題に直面している。
しかし、実践的観点から武士道を読み直すと、現代社会に生きる私たちの日常生活に応用できるキーワードがたくさんあることに改めて驚かざるを得ない。本書では、『甲陽軍鑑』『葉隠』『武道初心集』『兵法家伝書』など、武士道の代表的な古典を再検討しながら、武道文化のキーワードである「残心」「殺人刀」「活人剣」などを、現代にどのように活かしたら良いかを提案する。それは武士道の再生にもつながるはずだ。
私は、「武士道は日本固有の精神文化である」という見解には与しない。むしろ、武士道が、時代と場所を超えた普遍的な価値を持っている点にこそ、本来の意義があると思っている。それは私が外国人であるがゆえに、より明確に認識できることであり、海外における武道の調査・研究からも明らかに言えることである。
私自身は武道の修行を通じて、自分の弱点を知ることが出来たと同時に、日々のストレスがなくなり、感情をコントロールし、集中力を高めることができたと実感している。武道という文化こそ、日本が誇るべき世界遺産ではないだろうか? その貴重性を改めて本書で知っていただければと願っている。
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