書き下ろしのデビュー作『緑のさる』(2012年3月/平凡社)で昨年末に野間文芸新人賞を受賞し、一躍注目を集めた山下澄人さん。劇作家としては16年以上のキャリアをもつ。今年3月、2冊目の単行本『ギッちょん』を上梓した。その作品の魅力と人物にせまる。
――小説を書くようになったきっかけを教えてください。
山下 ぼくはFICTIONという劇団を主宰しているんですが、芝居を観に来てくれていた出版社の人が「お話があります」と連絡をくれたんです。会ってみたら、小説を書きませんか、と言われた。予想もしていませんでした。エッセイを書け、というならわかるけど。
――ブログ(「山下澄人のフォログ」)を書かれていましたしね。
山下 読んでくれていたみたいですね。でも、ぼくは小説ってほとんど読んでいなかったんですよ。面白くない、辛気くさい、と思っていました。でもちょうどその頃、保坂和志さんの『小説の自由』(2005年/新潮社)を読んで、ぼくのこの、小説への偏見みたいなものを肯定された気がしたんです。取り上げられているカフカとかチェーホフの小説を読んでみたらもの凄く面白かった。あ、こういうんやったら読めるし、書ける、と(笑)。でも結局最初の作品は、書き始めては「これは面白くない」ととまり、書きあげるまでに3年以上かかりました。
――創りあげるうえで、小説と劇との違いは何ですか。
山下 演劇は、目の前に観客が常にいます。そこでどうしてもサービスしてしまうんです。実はそれが鬱陶しかった。小説は、書きあげれば誰かが読むんだろうなあとは頭では分かっても、別に読まれなくても書いたもの自体は変わらない(笑)。
――山下さんのブログにこんな文章がありました。「演劇はそもそも、人間にむいていたのではない、と、ぼくは考える。なら何に。たぶんそれは『かみさま』と後に人間が名付けた、人間をはるかうわまわる何か『大きなもの』にむけていたのではなかったか。それがどこかで人間にむいた。演劇は人間にむいて人間の手の内にはいった。それをぼくらもふくめて、堕落、退廃といってもいい。しかし演劇にはまだどこかに、人間ではないもの、にむかう心性がある」(「山下澄人のフォログ」2011年2月1日)。これは、白洲正子が能は演劇ではなく、演者が見物と一体になって神に捧げる祈りのようなものなのだ、と書いていること(「お能の見かた」)に非常に近いと思いました。
山下 それ、分かります。