落語に関する取材をしたときのことだ。落語好きとして知られる東北生まれのタレントさんに話を聞いた。落語の魅力を聞くうちに、ふと話が逸れた。……落語に出てくるちょっと間の抜けた人物の語り、どうもみんな東北弁まがいに聴こえるのですが……と、問うと、彼はちょっと微妙な表情になった。「そうなんです。いつごろからかわからないけれど、落語に出てくる間抜け、みんな東北弁なんだ。これはまずいんじゃないか、東北差別なんじゃないかってわけで、だんだん変えてはいるらしいんだけど――といいながら「だけど、それもいいんじゃない。悪人じゃないんだよ。間が抜けてはいるんだけど、どこかあたたかい。それが東北人のイメージなら、あえて否定しなくてもいいさ」。お互い苦笑しながら納得した。
なぜこんな話から熊谷達也の新作について語り始めたかといえば、本書の豊饒さの核に、熊谷が生まれ育ち、そしていまも暮らす東北の地のことばがあるからだ。みごととしかいいようがない。東北弁を強力に使い切った文学作品といえば、なんといっても先ごろ亡くなられた井上ひさしさんの『吉里吉里人』である。日本国からの独立を目ざす吉里吉里国の人々は東北弁を「国語化」する。日本文学の名作を「吉里吉里語」訳してみせて大爆笑させながら、ページの向こうに、東北人・井上ひさしの鋭く尖った「怒り」にも似た感覚を嗅ぎ取ったのは東北の読者だけではあるまい。どうして「吉里吉里語」は爆笑されるのか、爆笑するあなたはなにものか、と。
熊谷達也は、本書でこの爆笑の対象としての東北弁に別れを告げた。かつて、ある対談で熊谷は「東北弁でハードボイルドは書けない。どうしてもユーモラスになってしまう」といった意の発言をしていた。本書はハードボイルドとはいわないまでも、東北弁を活かし切って、ユーモアを感じさせながらもシリアスな作品世界を実現している。本書の登場人物たちのセリフに、「東北弁だから」といった意味のない理由でのユーモアを感じる読者はいないだろう。ここにあるのは、フィクションでありながら時代を生きた東北弁である。それを実現するために、熊谷は「ルビ」の力を利用しているが、これは『東北学』や『仙台学』、そして『盛岡学』を発行している私たちも試行錯誤を繰り返している手法である。文字を見せて、東北弁を読ませる。音では理解してもらえなくても、文字でならわかってもらえるだろうというわけだが、これはなにも独創ではなく、『吉里吉里人』にも見えれば、熊谷その人も過去の作品でこの手法を試みている。本書ではその手法をより意識的に研ぎ澄まして、みごとに東北弁を読ませ切ったといっていいだろう。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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