五人の男女の話である。陰陽五行説の五色に則って、青柳、白江、黒岩、赤沼と登場人物の名前を考えた。ところで五色のなかには黄色が含まれる。日本人の姓で黄色というのは、ちょっと思いつかない。苦し紛れに中国系の先祖をもつ、黄朱音(フアン・チューイン)なる人物をでっちあげた。おかげで話は複雑さと奥行きを増すことになった(と思う)。
鳥たちが現れる。その飛翔能力に着目した人々は、古来より、鳥を様々な象徴に用いてきた。この作品でも、生と死を媒介するもの、現在と過去を往来するものといった、イメージや表象を担わされている。そんな鳥たちに導かれて、死者たちが現前しはじめる。死者たちの現前を、ときに「幽霊」と呼ぶむきもあるようだが、誤解である。これは幽霊の話ではありません。
生きている者たちと死者たちとの交感、コミュニケーション、そして作者の思い入れとしては「友情」の話と言っておきたい。五人の登場人物のうち一人は死んでいる。もう一人は失踪状態にあり、死んでいる可能性が高い。いわば灰色の死者である。残る一人は半分死んでいる。つまり話の途中で死者になる。生きているという状態があり、生きているのか死んでいるのかわからない状態があり、死んでいるという状態がある。五つの色で、生から死へのグラデーションを描くことも、この作品における目論見の一つであった。
奇妙な言い方だが、死者とは「不在の存在」である。不在であるものが存在している。不在であるけれど存在している。正確には、「現前している」と言うべきだろう。不在であるものだけが現前する。すでに現前しているものは、あらためて現前する必要がないわけで。不在であるものを現前させる作用が精神である。精神の作用によって、不在から豊かな意味やイメージを現前させること。宗教も芸術もそうやって生まれてきた。
ところで現在、携帯電話等の普及したこの社会で、若きウェルテルの悩みは芽生えうるだろうか。「あ、もしもし、ロッテ? おれ、ウェルテル。いまちょっといい?」というようなところから、果たしてあの深い苦悩は生まれるだろうか。ケータイ、メール、ネット、ツイッター……なんでもいいけれど、いまどきの他者は、なかなか不在になってくれない。これが文芸において、由々しき問題を惹起(じゃっき)している。すなわち恋愛を書くことが、きわめて難しくなっているのだ。それらしく描かれているものは、ほとんどが擬似恋愛である。恋愛が描けない。これは小説というジャンルにとって、まさに存亡にかかわる危機と言ってよかろう。
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