戦後日本の歴史の側道には、愛国者の哀しき墓標が延々と連なっている。
その大半は、戦後日本の主役であるはずの、しかし愛国の志を抱いたが故に「哀しき墓標」を背負わされて眠る知識人たちである。なぜなら、世界には「愛国無罪」を国是とする国もある中で、戦後のこの国では、愛国はまさに有罪以外の何ものでもなかったからだ。
しかし、国際政治学者・若泉敬の墓標には、ひときわ深い哀しみの風情が感じられるのは、筆者が同じ分野の学者として思うに、三島由紀夫や江藤淳など戦後の知識人愛国者の多くは文学や文芸評論という確固たる発言の基盤を擁して愛国を説くことが出来たが、戦後のこの国では国際政治学者であり同時に愛国者であることは、殆ど自己撞着的な矛盾とジレンマを背負って生きることを意味するからである。
本書は、その悲劇をまさに一身に体現して生きた「愛国の国際政治学者」若泉敬の、詳細な評伝である。しかしそれは、普通の評伝のスタイルからは少々、かけ離れている。そもそも、今日、「若泉敬」という人物について、わざわざ一冊を割いて評伝をものする必要はどこにあるのか。その名は、偶々、一昨年の政権交代によって「沖縄核密約」問題が世の注目を浴びることがなかったら、すでに遠く忘れ去られた名であったかも知れない。
たしかに若泉は、その死の二年前(平成六年)、長い沈黙を破って、沖縄返還交渉において自らが果した「密使」の役割について、あえて世に問う著作(『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文藝春秋)を出していた。しかし、平成日本の、およそ国の大事に関わる全ての事柄への、「心神喪失」と評してよいような、部厚い無関心・無感覚の壁は、若泉の、その必死の――あるいは決死の――問いかけにも、何の反応も示さず、十五年後の政権交代で外相となった岡田某による児戯に類する「密約暴露」があるまでは、冷たく黙殺し続けたのであった。それは若泉の最後のメッセージが、詰るところ、国防の自立と戦後の亡国日本からの再生を訴えるものであったからであろう。そして二年後の若泉の死(平成八年)は、戦後の多くの愛国派知識人のそれと同じように、憤死そのものであった。
しかし若泉の憤死に、三島や江藤らのそれと比べ一層の哀傷を(私――筆者が)感じるのは、彼がかつて「現実主義」を掲げた国際政治学者であったからである。本書がその随所において卓抜の考察をしているように、国際政治におけるリアリズムと日本語の「現実主義」との間には、殆ど対極的とも言ってよい、隔絶した意味空間の相違が横たわっている。にも拘らず、若泉や、本書において第一の脇役となって登場する高坂正堯、さらには“仮免許”のまま日本国の総理大臣となって尖閣・北方領土をめぐる失態外交を繰り返す菅直人が「現実主義を教わった師」と仰ぐ永井陽之助らの国際政治学や日本外交論が、「現実主義」と称されたことに、今日にまで続く戦後日本の悲劇と混迷の源があった。