なぜ『長嶋少年』を書いたのか? 僕のいちばんの宝物がここにある
昭和四三年の九月一八日、巨人対阪神戦。甲子園球場の試合は、バッキーが王に投げたビンボールがきっかけで、荒川コーチがバッキーに勢いよく飛び出していった。だが、バッキーは荒川コーチよりも強かった。バッキーの独り舞台だ。バッキー劇場だ。バッキー甲子園だ。
審判はバッキーと荒川コーチの喧嘩に割り込むというより、バッキーを恐がって腰が引けていた。誰もバッキーを止められない。それでも荒川コーチはバッキーに飛びかかっていった。バッキーはひるまなかった。バッキーは足を一歩踏み出して弾みをつけて、荒川コーチの顔面にストレートパンチを見舞った。バッキーの勢いはさらに止まらず、荒川コーチの頭をスパイクで蹴り上げた。バッキーの目がふだんよりも三倍ぐらいの大きな目になって、さらに鬼になって、もっと鬼になって、荒川コーチの額から血がしたたり落ちてきて、宮田が荒川コーチを助けようとしている。阪神の選手もバッキーを恐がって止められない。
長嶋は荒川コーチを見ていない。バッキーの動きをじっと見ている。長嶋が前にいこうとすると、巨人の選手が長嶋をガードする。長嶋を乱闘の中に入れたくない。ケガをさせたくない。高田もバッキー野郎を睨みつけながら長嶋の動きを見ている。ドサクサに紛れて阪神の選手が長嶋に手を出さないように見張っている。巨人の選手たちが苛立っている。
長嶋はバッキーを睨んでいる。僕の目は長嶋を追っている。長嶋しか目がいかない。巨人の選手たちは順番に長嶋を守っている。バッキーは弱い者いじめに見えてくる。江夏が若手のくせにバッキーに加勢しようとしている。
両軍の選手がバッキーと荒川コーチになだれ込んで喧嘩はおさまったが、入り乱れて小競り合いが始まる。金田が左手にタオルを巻いて登場してくる。阪神選手を次から次へとぶん殴るつもりだ。左手を痛めないように長いタオルを巻いている。地面につきそうなほどタオルが垂れている。長嶋は金田を見ていない。長嶋はバッキーを睨んでいる。グランドの中は殺気立っている。
乱闘が終わって、球場はちょっとずつ落ちついてきた。バッキーは退場になった。次の阪神の投手は権藤だ。まじめそうで目が落ち窪んでいて、痩せていて、乱闘のイメージからほど遠い。王は何もなかったように素振りをしている。王がバッターボックスに入って、権藤の一球目が、王の頭に直撃した。王は倒れ込んだ。王が右手で頭を押さえている。長嶋が倒れた王のそばにいって、黙って見つめている。王に「大丈夫か」などと叫ばない。長嶋は王をじっと見ている。
僕はひょっとしたら、もしかしたら、王は死んじゃうかもしれない。いや、権藤の投げる球ならば死ぬことはないが、後遺症は残るかもしれないと思った。王が担架で運ばれていく。長嶋は担架で運ばれていく王を見つめる。担架で運ばれていく王に阪神ファンからヤジが飛ぶ。両軍の選手がまたグランドに入り乱れて、乱闘になった。
あれ、長嶋がいない。乱闘の場に背番号3を探したが、長嶋はいない。どうしても長嶋にホームランを打ってほしかった。王の敵を取るためにホームランを打ってほしかった。今までにも長嶋にはここでホームランを打ってほしいと思ったことは何度も何度もあったが、この試合は長嶋がホームランを打たなければ僕の気持ちはおさまらない。僕だけでなく、全国の長嶋ファンはここで長嶋がホームランを打たなければ長嶋じゃないと思ったにちがいない。
あ! 長嶋がいた。乱闘の場から一人離れて何もなかったようにバットを持って立っている。長嶋はバットをしっかり握っている。バットを放して、バットを股間のところに置いて、手につばしている。長嶋は乱闘なんかどうでもいい。長嶋はバットの先を見つめている。バットの芯を見つめている。バットを握った両手を見つめている。
一度目の乱闘よりもはやくおさまった。これも権藤の人柄のせいである。阪神の監督は権藤を代えない。次の打者は長嶋である。この場面のために長嶋がいるのだ。この場面で打てなかったら、長嶋ファンを辞めよう。四球なんぞで一塁に出たら、長嶋ファンを捨ててやろうと決めた。ここで打たなかったら、長嶋茂雄は長嶋茂雄じゃない。
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