2014.05.02 書評

大切がらないふうに書く

文: 江國 香織 (作家)

『散歩が仕事』 (早川良一郎 著)

 この本を読んでいるあいだじゅう、このひとがすでにこの世に亡いということが奇妙に感じられた。どうしてだかわからない。すでに亡いかたの書かれたものだと知ったうえで読み始めたというのに。

 一つ目のエッセイのタイトルは「邪魔者」。定年退職した著者が、またべつの、定年退職した友人を訪ねる。その友人の家には広くて立派な庭があり、池があり、鯉がいる。でも友人は元気がない。著者は何とか励まそうとするが、何を言っても覇気のない返事が返ってくるだけだ。「面白くないから、早々に退散してわが家に戻」ると、「オクさんが邪魔者が帰って来たような表情で私をながめ」る。それだけの話。それだけなのに、ふっくらしていておかしみがある。

 二つ目のエッセイ「アッハッハ」も、定年退職をめぐる話。ひさしぶりに電車に乗った著者は、「電車というのは殺風景できたない乗り物だな」と思う。「これのギュウギュウ詰めに毎日乗っていたんだな、と考えてたら、電車に乗っているのがいやにな」る。そして、でも、「そんな退嬰した気持では駄目である。男は花も嵐も踏みこえて満員電車に乗らなくてはいけない、といいきかせた」と書いてある。おもしろい。タイトルにもなっている「アッハッハ」という言葉の、おおらかな響きもいい。

 このひとの文章は平明で飾りけがなく、とぼけていて、どこか人を食っている。

 読み進むにつれて、すこしずつ著者のことがわかってくる。「オクさん」と娘がいて、「チョビ」という名前の犬を飼っていること、パイプが好きで、パイプ仲間の集る銀座の店に、しょっちゅうでかけていること、若いころ、かなり無茶にオートバイを乗り回していたこと、麻布材木町で生れ育ったこと、初めて買ってもらった自転車で、蕎麦屋につっこんでしまったこと、女性の脚に魅力を感じること、帽子を愛用していること、馬面であるらしいこと――。

 大正生れの著者は戦争に行っている。従軍体験について書かれた幾つかのエッセイは、たとえば映画について、たとえば女性のお尻についてのエッセイと、平等な重さと手つきで書かれていて、その姿勢がまず恰好いいのだが、緊密で鮮烈でユーモラスで、いい小説を読んだあとのような余韻が残る。

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散歩が仕事
早川良一郎・著

定価:560円+税 発売日:2014年04月10日

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