- 2012.03.13
- 書評
“知恵伊豆”と呼ばれた男
この男なくして「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」はなかった!
文:村木 嵐 (作家)
『遠い勝鬨』 (村木 嵐 著)
ジャンル :
#歴史・時代小説
豊臣家を滅ぼしたあと、家康が安心したようにすぐ死んだことはよく知られている。覇権は築かれたものの戦国の気運は色濃く残り、町には辻斬りや傾(かぶ)き者があふれていた。時代は「花の元禄」に向かってぐんぐん坂道を上っているが、幕府の地盤はそれほど固まっていない。江戸の町自体、土地拡張の真っ最中で、老中も奉行所も町火消もまだなかった。
家康の死から7年、家光が「生まれながらの将軍」になったとき、小姓組番頭として寄り添っていたのが松平伊豆守信綱である。知恵が湧くように出たため「知恵伊豆」と呼ばれ、家光・家綱のもとで老中となって辣腕をふるう。抜きん出た能吏というイメージが強いが、当時の幕閣には保科正之をはじめ錚々たるメンバーがそろっていた。彼らは無私のチームワークで幕府草創期の難局を1つずつ乗り越えていく。
家光は20歳で将軍に就いたが、二代秀忠は弟忠長を推したともいわれ、まだ隠然と権力を握っていた。それを薄紙を剥ぐように委譲させるのは、失敗の許されない際どい作業だったにちがいない。
だがそのなかで信綱たちは家光に、30万という未曾有の大軍を率いた上洛を成功させる。その一方で諸侯への統制を強め、加藤清正の熊本藩は代替わりを待って改易に、弟忠長も自裁に追い込んだ。このあたりは秀忠の側近か、家光の信綱たちか、どちらがやったとも言い難いが、誰も彼もお見事というほかない働きをしたようだ。
その後も島原の乱、由井正雪の乱、振袖火事と、国難は矢継ぎ早に押し寄せる。もちろん改易の続出で巷には浪人が満ち、謀反の噂も1つや2つではなかった。飢饉に地震、大火はとぎれずに起こっているから、何かに格別恵まれた時代でもなければ、稀代の英雄が彗星のごとく現れた、ということもなかった。
そんな時代に生きた信綱も、才気は煥発だが剣の腕はからきしで、ハンサムというにはほど遠かった(まあ男だからどうでもいいのかもしれないが)。華やかな武勇談はなく、逆に小賢しい印象さえ受ける。