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海戦の実相を眼前に見るような醍醐味――吉村昭の徹底した事実主義

海戦の実相を眼前に見るような醍醐味――吉村昭の徹底した事実主義

文:森 史朗 (作家)

『幕府軍艦「回天」始末』(吉村 昭)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

『幕府軍艦「回天」始末』(吉村 昭)

 1

 作家吉村昭には、二つの大きな転機があった。

 その一は、純文学作家でありながら記録小説「戦艦武蔵」に挑戦し、評判作となり、一躍ベストセラー作家の仲間入りしたこと。

 第二は、文芸作「星への旅」により太宰治賞を受賞し、文壇での確固たる位置を築いたことである。

 舞台となったのは、岩手県の三陸海岸にある田野畑村「鵜(う)の巣(す)断崖」で、昭和四十年(一九六五年)秋のことだ。当時、田野畑村といえばまだ未開発の僻地ともいうべき小さな漁村で、到着するまで東京から二日かかった。

 文学修業中の吉村昭は、四度の芥川賞候補に選ばれながら受賞を逸し、次回作のテーマについて模索中の低迷期にあった。何らかの啓示があったものか、ふと思い立って三陸海岸への取材旅行に出たのだ。

 これが転機となった。「鵜の巣断崖」への旅は二度目で、会社勤務時代、知人から「一度見てほしい」と依頼されたのが四年前。その折の強烈な印象が蘇り、大きなテーマとして浮上してきたのだ。

「鵜の巣断崖」は海岸に面した二〇〇メートルほどの落差のある崖で、途中でウミウの巣があることでその名が付いたものだが、恐ろしいほどの切り立った断崖である。

 現在では自殺防止用の柵などが設けられているが、当時は何もなく、いきなり直下の荒波が見下ろせる急坂であった。

 昭和十二年、「死のう!」「死のう!」と叫び声をあげながら集団割腹自殺を図る宗教団体が社会的大騒動となったが、その団体を少年、少女におき換え、社会的不安のうちに集団行動に投身する不条理として描けないか、が発端となった。

 それが作品「星への旅」の結晶となり、太宰治賞の受賞に到ったのである。

 このときより、吉村昭と田野畑村の機縁がはじまった。

 村の開発が進み海沿いのホテルが誕生し、ワインバー付きレストランまで開設された利便性にもよるが、「何よりも美しい海と新鮮な魚介類、農作物。そして人情の良い地で、知人も多くふえた」と、吉村さんは語っている。

 と同時に、作家の眼はこの東北の一漁村の歴史的価値に気づいていた。

 村誌の記述によると、明治二十九年(一八九六年)、昭和八年、同三十五年に三陸海岸に大津波が襲来し、下閉伊(へい)郡田野畑村は貞観(じょうがん)、慶長(けいちょう)に匹敵する大地震災害を体験した。同村の古老たちの証言を集め、徹底した資料蒐集により、早くも昭和四十五年、「海の壁――三陸沿岸大津波」〔のちに「三陸海岸大津波」と改題(中公文庫/文春文庫)〕を執筆、完成した。東日本大震災の発生する四一年前のことである。

 平成二年(一九九〇年)、吉村さんに名誉村民賞が贈呈されることになり、私は担当編集者たち一同と共に吉村昭・夫人の作家津村節子両氏への同行が許されることになった。

 新築成った海べりのホテル羅賀荘のロビーで、私は吉村さんと二人、遠い海を眺めていた。当時、維新史に興味を抱いていた私はふと気づいて、

「吉村さん、あの沖を榎本艦隊が函館をめざして北上していたんですね」

 と語りかけると、

「そう……」

 とうなずきながら、吉村さんはふくみ笑いをしていた。君も、ようやくこの村の歴史の深さに気づいたか、という思いだったろう。

「桜田門外ノ変」の執筆中だった吉村さんはすでに幕末期の諸作品が視野にあり、「幕府軍艦『回天』始末」も予定稿に入っていたのだ。

 2

 榎本武揚ひきいる幕府海軍は慶応四年(明治元年)八月、旗艦「開陽」を中心に「回天」「蟠龍」「千代田形」の軍艦四隻、輸送船四隻とともに品川沖を脱出。蝦夷地、現在の北海道をめざして北上した。

 途中、暴風雨に遭遇して二隻を失い、榎本艦隊は松島湾をへて宮古湾に寄港。さらに北上して蝦夷地に入り、箱館を占領した。ここで入港してきた秋田藩の軍艦「高雄」を拿捕(だほ)し、艦隊に加えた。

 榎本は海軍副総裁。箱館での新政権樹立を宣言したが、新政府軍艦隊へは旗艦「開陽」の強大な砲戦能力を頼りにしていた。

 榎本軍は蝦夷地を所領とする松前藩兵を駆逐したが、その戦闘中、暴風雨により旗艦「開陽」を江差湾で失い、強力な海軍力の後ろ楯を無くした。榎本艦隊は、劣勢に立たされたのである。

 一方、新政府軍は「甲鉄」「春日」「丁卯」「陽春」の軍艦四隻、輸送船四隻で宮古湾入りし、箱館政権打倒をめざした。旗艦「甲鉄」は当時唯一の装甲艦で、アメリカの南北戦争終了と同時に係留中のものを幕府が買い上げ、紆余曲折のあげく新政府が接収したもの。

 宮古湾は盛岡藩宮古村(現・岩手県宮古市)にあり、情報を知った榎本軍は「甲鉄」乗っ取りを計画した。海上戦力で劣勢な榎本艦隊側は「斬込隊」で奇襲する計画である。

 榎本軍には、新戦力が加勢していた。艦隊が北上するさい、奥羽戦争に加わった旧幕臣たち、新選組局長近藤勇と別れ、宇都宮城の奪取、会津戦争を転戦した副長土方歳三、および新選組隊士らで、榎本艦隊の乗員は二八〇〇人にふくれ上がっていた。その中から、練達の剣士を選抜するのである。

 明治二年(一八六九年)三月二十一日、幕府軍艦「回天」「蟠龍」「高雄」三艦が宮古湾奇襲に箱館から出撃したが、途中の荒天で「蟠龍」を見失い、「高雄」が故障。「回天」単艦で突入に向かった。「回天」指揮官は、旧幕府海軍奉行荒井郁之助。艦長甲賀源吾。陸軍奉行並土方歳三。兵力約二五〇名。

 これが「宮古湾海戦」のはじまりである。

 同月二十五日、作戦は失敗におわり、「回天」は帰途に「蟠龍」を収容し、箱館にもどるのだが、一般史書では土方歳三と新選組斬込隊の活躍を主に記されるが、吉村史劇では新選組の隊士たちに、派手な舞台をあたえることはない。むしろ史実を忠実に、甲賀艦長と「回天」の旧幕兵、攻められる側の「甲鉄」はじめ四艦の防戦、反撃などを詳細に、的確に描いている。

 この徹底した事実主義に基づき、海戦の実相を、眼前に見るような醍醐味がある。存分に、本文を楽しまれたい。

 さらに、この海戦での新事実発掘はつづく。海戦の途中で機関故障した「高雄」は追跡してきた新政府軍艦に捕捉され、やむなく田野畑村の羅賀の岩礁に乗り上げ、同艦の乗員たちは山林に逃れた。

 その地が、私と吉村さんが話し合った羅賀の海辺にある石浜という磯であった。郷土史家からその事実を教えられた吉村さんはさっそく田野畑村を再訪し、「高雄」乗員たちが隣村の普代村に入り、ここで新政府軍に降伏したいきさつを取材した。

 投降したのは軍艦役小笠原賢三、艦長古川節蔵以下九六名。石浜に乗り上げた「高雄」に砲撃を浴びせたのは軍艦「春日」で、左舷一番砲の指揮官に二十三歳の東郷平八郎(のちの日本海海戦の司令長官)の名がある。

「宮古湾海戦」の主役はあくまでも軍艦「回天」の活躍だが、新政府軍艦に追尾され座礁した「高雄」にも海戦の真実がある、と徹底取材したいきさつは、吉村昭著のエッセイ集『史実を追う旅』(文春文庫)に詳しい。また、投降した乗員に仏軍人コラッシュがいて、日本女性を連れていたとの情報があり、その追跡調査も興味深いものがある。

 事実主義でいえば、本書では見逃しがたい個所がある。榎本艦隊が品川沖より北上し、宮古湾の鍬(くわ)ヶ崎(さき)に上陸した折のことだ。鍬ヶ崎は遊女の町で名高く、同じ北上組の新政府軍艦の乗員たちも海戦直前の刹那主義か、若い情熱の迸(ほとばし)りのせいか、両軍の乗員たちはこれら遊女屋に入りびたりとなった。榎本艦隊も新政府軍も、女色に狂ったのである。

 のちに投降した旧幕兵たちは各藩預けとなり、帰国したが、「それらの地では性病が蔓延した」と本書の最後にさりげなく書きこまれている。これこそ歴史の真実そのものであり、吉村昭――事実主義の真髄であろう。

文春文庫
幕府軍艦「回天」始末
吉村昭

定価:726円(税込)発売日:2022年03月08日

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