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【第94回アカデミー賞 国際長編映画賞受賞記念全文公開】対談 濱口竜介×野崎歓 異界へと誘う、声と沈黙<映画『ドライブ・マイ・カー』をめぐって>

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文學界9月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

■ルノワール「イタリア式本読み」

 野崎 濱口さんのユニークさでもあり、驚くべき真剣さの表れでもあるのは、ジャン・ルノワールの「イタリア式本読み」というやり方を、本気で現場に取り入れていらっしゃることですね。つまり、俳優たちに最初はできるだけ感情を抜いたニュートラルな声で台詞を読ませ、だんだん何かが生まれてくるのを導いていくというやり方。あれを演出の場でメソッドとして全面的に取り入れた人は濱口さん以外に、そうはいないんじゃないですか。

 以前濱口さんに大学で講演していただいたとき、学生にジゼル・ブロンベルジェ監督の短篇映画『ジャン・ルノワールの演技指導』(68)を見てもらってから濱口さんのお話をうかがいましたよね。あの短篇はまさに演技指導の深奥を垣間見せられるような、とても迫力のあるものですが、あそこで見られるルノワールは、俳優を慈しむ人としての一般的なルノワール像と少し違う印象を受けます。むしろ「できるだけニュートラルに」と言っておきながら俳優を思うがままに操る怖さがある。そもそもルノワールがいつも「イタリア式本読み」をやっていたのかという疑問もあります。しかし濱口さんは自らこのメソッドの有効さを確かめてこられたのですよね。

 濱口    そうですね。二〇〇八年の『PASSION』制作直後ぐらいに『ジャン・ルノワールの演技指導』を見てすごく興味を持ち、映画『THE DEPTHS』(2010)でちょっとだけ試してみた。でもそのときは「これは本当に効果があるのかな」みたいな微妙な感じで終わってしまった。その後『親密さ』(2012)では、ENBUゼミナールの在校生に舞台劇の脚本を渡し、演出は平野鈴さんと佐藤亮君(今、佐藤秋という名前で活動しています)に任せ、こちらはそれをドキュメンタリー的に撮る形でスタートしました。彼らはまず本読みを始めたんですが、これがひたすら棒読みでテキストを読んでいくというもので、驚きました。『ジャン・ルノワールの演技指導』を彼らが参考にしたということはないと思いますが、非常によく似ている。結果として、『親密さ』の舞台シーンで生まれた演技は自分がそれまで見たなかでもっとも素晴らしいと感じるものになりました。それで、いったいこれは何だと強い興味を持ち、もう一回本読みについて考えるようになった。そして『ハッピーアワー』(2015)でついに本格的に「イタリア式本読み」をやってみた。

『ハッピーアワー』は演技経験のない非職業俳優の人たちがほとんどでしたから、それがまたうまくいったんです。彼らはニュアンスの込め方をそもそも知らないし、感情を入れてしゃべるほうが恥ずかしい。なので、感情のない本読みのほうが何度でも繰り返せる。あのときは八カ月ぐらい撮影期間があって、この本読みをしていると声が変わってくるのが本当によくわかりました。ジャン・ルノワールは「声からきらめきがほとばしる」とまで言いましたが、確かにそう言いたくなる何かがそれぞれの声に入り込んでくる。そこまで行くとどんなふうに話そうがその声は魅力を失いません。あとは安心して任せることができます。

 野崎 ちょっと逸脱しますが、これは翻訳論で考えてみると、テキストに忠実な直訳か、あるいは意訳かという問題とパラレルなようにも思います。断固、直訳を旨として、それが結局は意訳になるというのがぼくの理想なのですが。ひょっとするとそれはルノワール=濱口メソッドにも通じるのか?

 濱口 まったくそうだと思います。僕自身もずっと演技と翻訳というのは非常に似通った何かであると感じていました。そして、「まずはテキストに忠実な直訳を」という野崎さんの翻訳原則は、確実にこのイタリア式本読みと重なるところがあります。感情を抜いて読む、ということは自分自身をテキストそのものへと近づけることです。それを繰り返すことでテキストを身体化する、ということは本読みを通じて「テキスト的人間」になる、ということです。そこでは、テキストそのものになるという不可能な夢が生きられている。その不可能性は翻訳文が原文そのものには決してなれない、ということとも近いと思います。ただ、これこそが真に感情的かつ即興的な、つまりは当を得た「意訳」でもあるような演技へと結びつくための態度なのだとは常々感じています。ただ演技と翻訳を語るには今回は時間が足りませんね。いずれ、またの機会にこの点もじっくりお話しできたらと思います。

 野崎 話を戻しますと、『寝ても覚めても』(2018)でも可能なかぎりこの本読みを実践なさったわけですよね。今回はどうだったんですか?

 濱口 今回もできるかぎり取り入れました。もうひとつ、今回この本読みを物語に取り込んだのは、「こういうことを実際にやりますよ」とスタッフ、キャスト、プロダクション全体に周知する狙いもありました。今の映画作りの現場において、プロの役者さんたちにリハーサルにしっかり時間を取ってもらうのは本当に難しい。台詞を覚えたり演技のプランを練ったりの作業は、それぞれの役者さんが撮影に入る前にやっておくべき仕事とされるのが通常です。それを明確に制作スケジュールに組み込み直すには、本来は業界全体の意識改革が必要でしょう。今回は本読みを映画本編に取り込むことで「僕は役者さんたちとこういうことをやります。これは必要なものなんです」というコミュニケーションを取りやすくなる。そういう狙いもありました。

文學界(2021年9月号)

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定価:748円(税込)発売日:2016年10月07日

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