――今回、元ピアニストの調律師の男性・鳴瀬が主人公として描かれていますが、なぜ、調律師という職業を書こうと思われたのですか。
熊谷 まず、職人を書いてみたいという気持ちがありました。ただ、職人は、1か所でじっくりと何かを作っていて、動きがなくて小説としては書きにくい。そこであちこちへ行って、いろんなシチュエーションで仕事をする職人はいないかと考えて思い当たったのが、ピアノの調律師でした。
――鳴瀬は、自身が持っていた「音」と「色」が対応するという「共感覚」をピアニスト時代に起こした自動車事故で失った代わりに、同乗していて亡くなった妻が持っていた「音」と「匂い」の「共感覚」を、なぜか受け継いでしまうというのが、物語の大きな特徴ですね。この「共感覚」という要素が、物語に不思議な雰囲気を纏わせています。
熊谷 調律師で行こうと決めたあと、主人公の背景として何か欲しかった。そこで「共感覚」というモチーフが浮かんだんです。「共感覚」は、実際に人体に起きる現象で、人は聴こえる「音」を、「音」として認識しますが、「共感覚」を持つ人には、同時に「色」などとして認識されます。そういった1つの刺激で複数の感覚が同時に生じる現象が「共感覚」です。どんな理由で「共感覚」が起きるか、科学的には解明されていないそうですが、それが、創作上の魅力にもなりました。「匂い」も「音」も、視覚的な物と比べて文章化するのは難しいですが、小説でしか表現できないテーマでもあります。その分、読んだ人の解釈の範囲が広がるようなものが書けたのも面白い経験でした。
――今回の鳴瀬は、これまで熊谷さんが描かれてきた主人公のなかでも、特に静かな人物という印象を受けますね。
熊谷 今回は、苦悩や葛藤からの解放をテーマに、普段は表に出さないけれど、パートナーを失った喪失感、憎しみ、苦痛、といった深い情念を奥底に持つ男を描いてみたかった。そこで、ハードボイルド風の一人称で、リアルタイムに季節を変えて、いろいろな場所へ行って人と出逢うという構造が決まりました。