漫画家という職業柄なのか、いや、プロになるずっと前から、私は本を読んだり、人からおもしろい話を聞かされると、とつぜん頭のなかにバーッと映像が浮かんでくることがあった。物語の世界が鮮やかな色を帯びて、登場人物がリアルに動き出す。田辺聖子さんの『おちくぼ物語』を読んだときが、まさにそんな感じだった。物語の最初のほうで描かれる阿漕(あこぎ)と帯刀(たちはき)のラブシーンの美しさときたら……、紅、蘇芳(すおう)、青の花が咲いたような衣の上に長い黒髪が広がって、その髪ごと阿漕の細いからだを抱きしめる。さぁ、このシーンを読んだ瞬間から、頭のなかは映像でいっぱいだ。あとは次から次へと勝手に絵が浮かんで、読み終えたときは一冊分の映像が出来上がっていた。
そういう作品に出会うと、私は自分の手で漫画にしてみたくなる。今は忙しすぎてそんな余裕はないが、せめてキャラクターの絵だけでも描いてみたくなる。しっかり者の阿漕なら『ガラスの仮面』に出てくる速水真澄の秘書、水城冴子のイメージで、メガネをはずし、目を大きくキラキラさせると、ぴったりはまりそうだ。姫君なら、右近の少将なら……と、頭の中でペンをとってみる。私に限らずこの作品を読んだ漫画家はみんな同じことをするだろう。
継母にいじめられていた姫君が美しい貴公子に助けられ、一途に愛されて富も栄誉も手に入れるという原作は、女性の夢やあこがれを詰め込んだ少女漫画の世界そのものだ。姫君に次々と襲いかかる危機。そこかしこにちりばめられたユーモア。もし『落窪物語』の原作者が現代に生きていたら、きっと売れっ子の漫画家になっていたと思う。
もともとドラマチックな原作をベースにしながら、田辺さんが読みやすくアレンジし、こまやかに人物を描写したこの作品がおもしろくならないはずがない。ストーリーは類型的で、あらすじは知っているのに、物置に閉じ込められた姫君を救うために少将が屋敷に乗り込む場面は、初めて読むようにハラハラ、ドキドキ。喜怒哀楽のすべてを盛り込んだ濃密な時間をあのスピード感で描けるとは、さすがは田辺さんだなぁ、とあらためて力量に驚かされる。
何が魅力的かというと、主役から脇役まですべてのキャラクターが立っていることだ。主人公の姫君は美しく、気高く、虐げられた暮らしをしていても、人を怨まず、悪口もいわず。しかも、裁縫も上手で和歌もすらすらと詠む。非の打ちどころがなさすぎて、逆に物足りないくらいだが、平安時代はあれが理想の姫君像だったのだろう。なぜそこまでと思うほど姫に献身的に仕える侍女の阿漕と、気の強い彼女にぞっこん惚れこんでいるお調子者だけど正義感の強い帯刀。少しボケかかって、奥さんの北の方のいいなりになっている実父の中納言もいい味を出している。
「どうしておちくぼのおねえちゃまを物置なんかに閉じ込めるの」と無邪気に質問して、北の方をカッカと怒らせる中納言家の末子、三郎などは、ほんの端役なのに、その愛らしさはいつまでも心に残る。私の大好きなキャラクターだ。
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