南木佳士作品に接したのは、泉鏡花文学賞受賞作『草すべり その他の短篇』がはじめてだったのだから、かなり遅い読者だ。そこに収録された四篇には、主人公である医師の心に映る、壮年から老年にさしかかって、さまざまな理由で死を意識しはじめた人々が登場しているが、文章を紡ぐ微妙な息遣いによって、強く静かな説得力が伝わってくる作品群だった。
その説得力は、主人公の「わたし」にかさなる作者の“生”と“死”に向かわざるを得ぬ、のっぴきならぬ境遇や立場から発する緊迫感のせいでもあり、その緊迫感の底で微妙にうごめく、作家らしい鼓動のけはいから生じる効果でもあった。
とくに、主人公が高校時代にあこがれていた女性と浅間山に登り、たがいの衰えを感じつつ、かつての記憶の断片をたぐりよせる時が書かれた「草すべり」には、生命と対峙(たいじ)する真摯な現実感と、その奥の奥でひとりあそびをする作家の上等な不埒(ふらち)さが交錯する味わいを感じさせられた。
今回、私はそんな作者の内側にゆらめいているさまざまを、目明(めあか)し的に探索してみようという思いで、このエッセイ集を読みはじめた。資質、感性、体験、環境、思考回路、作品への取り組み方、文章の味などのすべてに、自分とはまったくかさなり合わぬ、作家としての本質的な要素をそなえる、対極にいる確乎たる作家である作者に、強くそそられるものを感じたからでもあった。
実は、私と作者にはかさなるようなかさならぬような生い立ちがあり、それは祖母によって育てられたという共通点だ。そこに活路を……と思ったが、すぐに気持がしぼんだ。作者は、祖母に「ただ在るだけの身の世話をしてくれた祖母」としての感謝の念をいだき、このエッセイ集にも随所にその表現が出てきて、そのたびに私の胸に突き刺さった。
それは、かさなるようなかさならぬような生い立ちに対して、作者より十一歳も上でありながら、このような感謝を祖母に向けることなく、それを自らの特権的ゆがみあるいはかるい自虐のいとなみと居直って、いまだそこから脱出できず立往生している自分のありようが、この表現によって刺激されるからだった。作者のむずかしくない言葉が、強く、重いのだ。たしかに、“むずかしくない言葉”に意表を突かれ、それがこちらの“生”や“死”への思いのヒントとなって突き刺さるのが、このエッセイ集の……いや南木作品の一大特徴であるのかもしれない。
このような境地の土台には、『ダイヤモンドダスト』で第一〇〇回芥川賞を受賞した翌年、三十八歳でパニック障害を発病し、やがてうつ病に移行しての、「自死へといざなう見えざる力に抗するだけで精一杯の数年間」があるにちがいない。この時間を幾通りもの回路から思い返すことをつづけたあげく、作家として自然に会得していったのが、“むずかしくない言葉”の強く、重く刺激的な説得力ということになるのだろう。
底上げされた価値を身にまとう、底上げの場、力をぬく、無言で生きのびる、あきらめる、体重を移動する、有り難いということ、おにぎり一つで急に元気になる「からだ」、凍(し)み死ぬ、ひとの死に満ちた職場、からだのままに生きのびる……一つひとつひろい上げればきりがない。これらの“むずかしくない言葉”の表や裏にその時どきの実感がまぶされ、その奥から普遍の真理をさそい出す。勤務医であり作家である、奇跡のヤジロベエをこなす者ならではの表現だ。たとえば「プールで泳ぐようになって六年になる」で始まる、「力をぬく」という章はこんなふうに終わっている。
からだの力をぬく必要にかられて泳いでいるうちに、気がついたらゆったり泳げていた。水のなかで左右の肩に体重を移動させていると、からだはおのずと前に進んでゆく。登ろうと意識せず、左右の足に重心を移しているうちに思わぬ高みに登ってしまう登山のように。
はじめ、「クロールもどきで二十五メートル進むのがやっと」で「どこで息つぎをしたのかもわからず、懸命に手足をバタつかせてプールの端に泳ぎついた」作者が、“力をぬく”ことを体得した感動と、そこから広がる普遍性へのいざないがあざやかだ。
これを読んで私は、百足(ムカデ)と百本の足の話を思い出した。右に五十本、左に五十本もある己れの足を、いったいどういう順番でうごかして前に進んでいるのだろう……そう考えたとたん、そのムカデは一歩もあるけなくなった。つまり、何も考えずに、生物は目の眩(くら)むような複雑さをこなしながら生きているという話だ。
だが、百本の足をじっくりと点検し、自分のからだの法則を見極めて、なおかつ前へ進む意志をもつ百足もいるらしい。私は、この比類ない説得力をもつエッセイ集の作者に、そんな思いをからめた。
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