主人公の「ぼく」は、どうやらおばさんと暮らしているみたいだ。父親は入院していて、「ぼく」は見舞いに行くこともある。母親は昔、車にはねられて死んだ。
「ぼく」はボロいアパートに住んでいる。「モリのおっちゃん」も同じアパートに住んでいる。不良の中学生も、友だちの「マエシバ」も「コジン」も「キッシャン」も出てくる。猫の「シロ」も、子鹿のような「女の子」も登場する。微笑ましいやりとりがある。悲惨な暮らしぶりも描かれる。
でもどうも、みんな、この世に生きている気がしない。記憶の中とか、夢の中とか、ここではないどこかで生きているような気がする。そういえば、第150回の芥川賞を受賞した小山田浩子の『穴』も、突然、主人公が穴に落ちるあたりで、現実は歪み出して、そのまま小説は進んでいった。パラレル・ワールドではない。現実の空間と非現実の空間というふうに分けられないのだ。
言葉を換えれば、小説にしかできない空間を作る新しい書き手が台頭している、ということでもある。本書の著者・山下澄人もその1人である。もちろん作家によってその手法は大きく異なるのだが、山下の場合、2つの特徴がある。
ひとつは、登場人物たちが自由に時間をまたぐ点。病院に入院している父親が子どもになって「ぼく」の前に現われたり、死んだ母親が若返って出てきたりする。普通の時間軸に収まるように小説を書いていないのだ。たとえば、友だちの「マエシバ」について、こんな文章がある。「マエシバはあと二日で四十歳になる日、脳腫瘍で死んだ。だけどそのことをぼくは知らない」。なぜ「ぼく」は知らないのか、設定上、「ぼく」は小学生だからだ。だが、語り手は「マエシバ」のその後の人生も小説の中ですでに語ってしまっていて、時間の前後関係を気にしていない。
ふつう、小説家は、このあたりを気にするものだ。小説に流れる時間が現実の時間に近いものであればあるほど、読者にとって馴染みやすいものだから。山下はそのあたりを、かなり意図的にずらしている。