ヨシノは大学を出て、小さな会社でそれなり真面目に勤めて六年目の女性。小説の冒頭では二月の連休を使ってひさびさに南を目指して旅にでるべく、旅行代理店で予約をしてきたところだ。ところが話の最後になると、その貴重な連休の最終日の夜も遅くに、ヨシノは寒空の下、冠婚葬祭チェーンの葬儀場近くの路上で、失恋でよれよれの先輩ホンダさん(男性)と一緒に、温かい蒸気と芳しい匂いを上げるラーメン屋の前に立って、唾を飲んでいる。
楽しい旅の予定が、どうしてそんなことになってしまったのか。そして、今日一日、半ば断食状態だったヨシノは、寒夜に湯気を上げるラーメンを、今度こそ食べることができるのだろうか。
ヨシノの悪戦苦闘に付き合ってきた読者としては、ハードだった一日の終わりに、ヨシノがせめてラーメンで身体と心を温められることを神様にお願いしたくなる。読者に自然にそう思わせるのが、ヨシノの人徳で、この小説の魅力だ。
ヨシノは人を呼びつけることのできない女。呼びつけられるはずの後輩のところへも、書類を持ってこちらから出向いてしまう。世間では当然の、たとえば先輩後輩などの、いわば〈権力関係〉に、うまく乗って行けない。
だが、気が弱いのとは、まったく違う。気がいい、と言っても少しずれる。権力関係を使うのが嫌いだ、というより、好きでない。いや、むしろ生まれつきの不器用さで、権力関係を活用するのに遅れを取ってしまう。
何しろ生まれた時にさえ、人を呼べなかったらしい。夜遅く産気づいた母親が急ぎ連絡を取った父親は、会社で残業のはずが、どこかへ行ったか、行方不明。ついでに言えば、やがて離婚して姿を消した。
もっとも、だからと言ってヨシノが不幸な育ちだというわけではない。翌日には祖父母が駆けつけてくれたし、娘を育てるために土日も働く母親に代わって、誕生日にはいつだって一緒にケーキを食べてくれた。友達の母親に、なぜみんなを呼んでお誕生日会をしないのと聞かれて、ただ困ったように笑ってやり過ごすことはあったにせよ。
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