今年7月の誕生日を迎えて95歳になりました。若い頃は病弱だったのに、これほど長命を授かるとは、早世した父や兄たちに守られているのかもしれません。
私は家計を助けるために、15歳で京都郊外にあった第一映画社に編集助手として入社しました。当時は映画の黄金期。3人の兄たちも皆、日活の京都撮影所で働いていました。
若き天才と言われた山中貞雄監督の『丹下左膳余話 百万両の壺』という作品には上の兄がチーフキャメラマン、下の兄が録音係で参加しています。
第一映画社に入社した私は伊藤大輔監督に可愛がられ、溝口健二監督の『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』といった大作の編集を手伝いました。当時は35ミリのフィルムを舐めて乳剤を柔らかくし、和バサミで削り、そこに接着剤を塗って貼り合わせるというやり方をしていました。よく和バサミで指先を傷つけたものです。
その後、日独合作映画『新しき土』に参加。これはドイツ人の巨匠、アーノルド・ファンク監督が日本を舞台にして製作した映画で、主演は原節子さん。編集者はアリス・ルートヴィッヒさんというドイツ人女性で、私は彼女から大きな影響を受けました。私にとって人生の目標となった女性です。
兄が満映(満洲映画協会)に入社したため、勧められて私も昭和14年、海を渡って新京(長春)の満映へ。
社宅のお隣は李香蘭さん。中国服にハイヒールが良く似合い、妖艶で、とても私と同じ歳とは思えませんでした。男性の訪問客も多くて、社宅の奥さんたちは盛んに詮索していたものです(笑)。彼女の主演作『白蘭の歌』(渡辺邦男監督)の編集助手を担当しました。
次第に戦況が厳しくなる中、満映は東宝との合作で、島津保次郎監督のミュージカル映画『私の鶯』(主演・李香蘭)を製作しますが、これは公開されず、幻の映画と言われました。私の兄、福島宏がキャメラマンだったので、貴重な撮影風景のスナップがあり、今回の本の中でも紹介しています。
敗戦を迎えた時、私は25歳。満映社員は撮影所に籠ってソ連軍を迎え撃ち、玉砕するという噂が流れました。しかし、病床にあった私は何の恐怖も感じませんでした。
結局、玉砕はできず、甘粕理事長だけ青酸カリを飲んで自殺してしまった。その後、1000人を超える満映社員と家族たちを襲った苦難を考えると、甘粕さんは卑怯だったと私は今でも憤りを感じます。