2004.04.20 書評

〈特集〉「坂の上の雲」
ワイパーの向こうの司馬さん

文: 吉田 直哉

『坂の上の雲』 (司馬遼太郎 著)

ひとごとのように話す風潮

 そのころ私には、司馬さんに苦言を呈したいことがひとつあった。

 それは、「文藝春秋」本誌の巻頭随筆欄の連載『この国のかたち』がまさに佳境に入って、読者としては毎回じつに眼からウロコの充実感だが、思わぬ副産物が生まれた。日本を「この国」という呼び方がすっかり流行になってしまった、という現象である。

 まず、テレビのキャスターをつとめる連中が得意になって使いはじめ、それから野党の政治家に伝染したと思ったら、たちまち保守陣営の代議士の発言でもきかれるようになり、ついには時の総理までが、日本のことを「この国」というようになってしまったではないか。

 そう言うと、この国と呼んでなにが悪い、司馬さんだってそう表現しているじゃないか、という言い合いになるのだが、ほんらい自分の国なのである。すっかりすたれてしまった「わが国」か、いやなら日本、と呼ぶべきなのだ。この国というと客観性は漂うが、あっしには関わりの無いことでござんす、まるでひとごとにきこえる。キャスターは知らず、政治家がそれでいいのか? この風潮を御本人はどう思っておられるか、問いただしたかったのだ。

 すると司馬さん、やはり気づいておられて、私にぜんぶまで言わせず、ああ、それ責められるとこまると、前から気になっとんやと、驚いたことに非常にあわてておっしゃって、全責任が自分にあるとは思わないが、責めは大いに感じている。たしかにじつにいやな風潮だ。弁解にきこえるから言わないようにしてきたのだが、ここだけで白状すると、自分がつけたかったほんとうの題は「この土のかたち」だった。土と書いてクニとルビをふるつもりだった。

「国家や国民を主人公にするだけでなく、それが出現する前の、地域としての、社会としての日本と、そこに生きる人びとが主人公だということをはっきりさせたかった。いまでももちろん、同じ気持ちで書いているのだが……」

 という意味のことを言われた。しかし当時の堤堯編集長が、「お考えには全面賛成だが、タイトルにルビは……」と難色を示しつづけたので妥協して「国」にした。もちろん自分の責任だが、と残念そうであった。

 このいきさつについては、のちに堤氏自身も書いておられるので、「ここだけ」の話ではなくなった、と安心して書くのだが「この土のかたち」という題名はまことにすばらしい。しかし、堤さんの言い分はもっともで、私が彼の立場でも同じことを懇願するであろう。そして、「土」にしたとしても、「このクニ」という呼び方が流行するのは、残念ながら同じであったろうと思われる。

 諸悪の根元として四つに取り組んで考えられたバブル期の「土地」もふくめて、土と書いてクニと読ませようとした司馬さんの思索のあとなど推し量ることなく、響きのかっこよさだけが模倣されるのだ。

「かりそめのことながら、別の惑星からきたとして、日本国を旅している」気分で、さまざまな「『かたち』をとりだしては大釜に入れて」エキスを抽出された司馬さんが「このクニ」と呼ぶのと、それをまねしてキャスター、コメンテーター、政治家が何の思想基盤もなしに同じ音のことばを発するのとは、まるでちがう。軽佻浮薄になるだけなのである。

 ついでに言うと司馬さんがいち早く気にして嫌っておられた政治家用語は、「改善をする」「追及をする」「陳謝をする」「善処をする」といった、いったん名詞にしてから動詞にする「――をする」という言葉であった。

 なぜ、提案する、と素直に動詞を使わないのか、提案をする、というとひとごとのようによそよそしく響く。それが狙いだろうか、と嫌っておられた。これもいまや、「このクニ」と共に、国会のなかで全盛である。

「反省をするというと、する主体と反省の間に、ほどよい距離があるような感じがしますな。誰が発明したのか、うまいぐあいに反省するのも善処するのも本人ではない、誰か他の人、という雰囲気が漂うけど、誠実でないですな」と言われたのを思い出す。

 こういう話をなさるとき、司馬さんは、顔の前で右手をワイパーのように振られるのが癖だった。目の前の霧をはらって現実や歴史を凝視なさるのだなと思ったものである。

 いまもワイパーの向こうで、ああ、ますますいやな言葉がはやっているな、と苦々しい表情をなさっているにちがいない。

坂の上の雲 一
司馬遼太郎・著

定価:本体1,600円+税 発売日:2004年04月12日

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