平成の時代に入って長らくつづく経済低迷は、人口構成の少子高齢化をともなうことによって日本の経済社会の全体を急速に衰退させつつある。団塊世代はあと十年先に七十五歳を超え、人口総数の二割ほどが超高齢者となる。高齢者を支える現役世代(労働力人口)の総数がピークを越えたのは二〇〇〇年のことであった。この間、経済活性化を求めてさまざまな策が講じられたものの、実体経済の感応度は鈍く、政策効果に持続力がない。成熟経済といえば聞こえはいいが、要するに日本の経済社会が衰退期に入り、個人にも企業にも地方にも、政策にポジティブに反応する力動性が失せてきたのである。
人々の中に閉塞感がいつになく深く垂れ込めているのは、そのためであろう。個人の人生に「生老病死」があるのと同様、一社会にも生成、成長、成熟、衰退のライフサイクルが確かに存在する。問われるべきは、成熟から衰退へと向かうこの文明史的な転換期に身をおく日本人、そのおのおのが与えられた生をいかに健やかに紡いでいくのか、その精神の構えをどう築くかにある。いかにも難題である。
端(はな)から不吉なことをいうようだが、日本人の自殺率は先進国の中でも最も高いレベルにある。高齢者のそれは一段と高い。日本は犯罪率の低い安全な国として知られてきた。事実、いまもそうなのだが、犯罪率を年齢層別にみると、六十歳を超えるあたりからこの率は急上昇しており、日本は高齢者の犯罪率において世界に顔向けできる国ではもはやない。犯罪といっても万引きなどの軽犯罪が主なものだが、それはそれで高齢者の生きがい喪失を象徴する犯罪範疇のように感じられて、何ともわびしい。
他方、日本人の平均寿命は二〇一五年において男性八十・八歳、女性八十七・一歳、いずれも過去最高のレベルとなった。男性は世界第四位、女性は第二位だという。日本人の平均寿命が最高水準に達する一方、高齢者の自殺率や犯罪率は世界的にみて高率なのである。
「健康寿命」という概念が厚生労働省傘下の社会保障・人口問題研究所によって提起されている。“健康上の理由によって日常生活が制限されることなく維持できる生存期間”のことである。つまり平均寿命と健康寿命との差が、“日常生活に制限のある健康ではない生存期間”ということになる。この差は、現在、男性で九・一年、女性で十二・七年ほどだという。平均寿命がさらに延びていくことが予想されるから、健康寿命を一段と延長させなければ、高齢者の生活の質(QOL)の低下が避けられず、医療費や介護給付費が増大して社会保障のシステムが毀損(きそん)されかねない、という警告でもある。
そうだとすれば、すべての人々が倦(う)むことなく追求してようやく達成された「長命」が、実は「長寿」などではなく、逆に加齢とともに重篤の度を増し、しだいに家族はもとより自治体をも巻き込んで進行する「長呪」ともいうべき状態となる危険性がある。現に、私の身内にもコミュニケーションがまったくとれないままに、介護施設で便々(べんべん)の日常を過ごしている者が何人もいる。見舞うたびにこれでいいのかと暗澹たる気分で施設を後にする。
率直にいって、このような現実は、現代の日本人が自然生命体としての人間に賦(ふ)された則(のり)を超えて長命を追い求め過ぎたことの帰結なのであろう。老人の自殺率や犯罪率が高いのもそれゆえではないのか。
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