釈徹宗さんは大学の先生である。大学で教えておられるということは、学者であるということだ。さらに釈さんは僧侶である。如来寺というお寺の御住職である。それだけではない。認知症高齢者のための「むつみ庵」というグループホームを運営し、みずから入居者のケアをし、みとりまでなさっている。それにくわえて釈さんはジャーナリズムの世界でさまざまな発言もされている。その活動を遠くから見ていて、「孫悟空」みたいな人だ、と思っていた。孫悟空が本当はどういう存在かは知らないけれども、私は子供の頃、絵本や物語の中に出てくる孫悟空に憧れを抱いていたのだ。アメリカのスーパーマンとちがって、どことなくユーモアがある。親しみやすいヒーローだった。
そんな釈徹宗さんが一冊の本を書かれた。『死では終わらない物語について書こうと思う』(文藝春秋)という長い長い題名の本である。私も新人としてデビューした頃、やたらと長いタイトルをつける作家として散々からかわれたものだ。それまでは『土』とか『こころ』とか『雁』とかいった作品名が尊敬されていたのである。しかし、『蒼ざめた馬を見よ』だの『海を見ていたジョニー』だのといった当時の私の小説の題名をはるかに上まわる超長い題名の釈さんの本には、読む前からカブトを脱ぐ気持ちがあった。そして読後、カブトどころか、首まで差しだしたくなる気持ちをおさえることができなかった。
この本の中で釈さんが追求されているのは、死を終わりとするのではなく、そこから始まる世界に思いをはせることである。古くから伝わる「往生伝」をテコに、釈さんは日本人の「死」に対する意識下の世界を鮮やかに分析してみせてくれる。分析の果てにおのずと現れてくるものがある。それが死後の世界への想像の旅だ。
戦後七十年、私たちは生きることに必死になってきた。目を三角にして生き急いできたのである。戦争の時代に、お国のために死ぬことだけを考えてきた反動だろう。「立派に死んで参ります。必ず金鵄(きんし)勲章を受けます」と誓って、この国の青年たちは出征していったのだ。暁烏敏(あけがらすはや)、藤原鉄乗(てつじょう)とならんで清沢満之(きよざわまんし)の北陸の弟子の三羽烏の一人といわれた高光大船(たかみつだいせん)は、出征に際して別れに来た青年が、「では、言って参ります」と挨拶したことを咎(とが)めて、「行って参りますとは、生きて帰ってくる気か」と叱ったそうだ。死ぬことが国民の義務とされた時代の空気を物語る挿話として曾我量深(そがりょうじん)が語っているエピソードである。
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