戦前には『とりかえばや物語』を読むことはできなかった。わたしは旧制女子専門学校国文科の生徒であったが、この本のテキストは世間になかったし、たとえあったにしても、軍国主義のさかんな時代なので、こういう退廃的な物語には、人々は拒否反応をおこしたであろう。
『とりかえばや物語』はながいこと、評価されることなく、うちすてられていた。
近年になってようやく、ねんごろな注釈つきの本があらわれ、一般の人々が読めるようになった。
わたしも通読したのは、はじめ、中村真一郎氏の現代語訳によって、であった。
その後、注釈にたよりつつ原典を読んで、これはたいへんな物語だとわかった。筋のおもしろさ、奇想天外なアイデア、人物のいきいきしていること、はいうまでもないが、いちめん、現代的な刺激にみちているという点で、永遠にあたらしい小説といえるであろう。
つまり、女の生きかたが、たえず、問われているおはなしなのだ。
女主人公は、活発で、頭がよく、勇気にとみ、人とつきあうのが大好きなうまれつきだ。そういううまれつきの少女が、時代のならわしとして、年ごろになれば部屋のうちへとじこもり、女たちだけを相手に閉鎖的な生活を強いられることになる。
考えただけでもいきがつまりそうだ。
あなたならどうする。
彼女は自分の可能性に賭け、男装して世の中に生きつづけようと決心するのである。
もとより、現実ではありえないことだが、そこが物語である。そして、たいていの研究者の推察されるごとく、わたしもこの物語の作者は女性ではないかと思っている。女作者は、男たちに肩をならべて生きることを夢みたのであろう。当時の男(現代でも一部ではそうだろうと思うが)は男性優位を信じているから、そういう女を、小しゃくな、つらにくいやつと考え、とても物語の女主人公にすえたりしないであろう。作者は男ではありえない。
女主人公は男装して社交界へ打って出、その才知と美貌と人柄によって人々を魅了する。
しかし運命のおとしあなにはまって思わざる出産を経験する。そのあいだ、彼女は本来の女すがたにもどり、同時に女としての人生をはじめて生きることになる。
それはただひとりの男の手で描く円周の中にしか、生きられないという、きわめて限定的な生活であった。
すでに女主人公は、人生の栄光や、自負を知ってしまったのだ。そういう人間に、ひとりの男に支配され、その動きに一喜一憂するだけの、ちっぽけな女の人生への不満がわきおこってくるのは当然である。原典はそこをくりかえし、しっかり書きこんでいる。見ようによればフェミニズム小説ともいえる。しかも相手の男は、女すがたにもどらせて手もとにおいたからもう大丈夫、とばかり、もうひとりの愛人の話まで、くどくどとうちあけてしまう。〈ばかか、この男〉と、女主人公は軽蔑しつつ、内心はどうせすてる男だから、いい顔をしていてやろうと思うあたりの、すごみのある女心。