「なぜ利休は秀吉に殺されなければならなかったのか」―― ついに探り当てた事実から、二人の本当の関係に迫る
作家デビューして十年を迎える。
この節目を考え、早くから二つの大きな謎解きに挑戦してきた。
その一つが平成二十四年七月から中日新聞などに連載を開始し、二十五年九月末をもって脱稿した『水軍遙かなり』(二十六年二月文藝春秋から上梓)である。
この小説の中で向き合った歴史の謎は、
「信長は本当に鉄甲船を造ったのか」
「日本水軍は、朝鮮の役で、なぜ緒戦で、朝鮮の亀甲船に苦杯を喫し、次の海戦では易々と撃破できたのか」
「家康はなぜ駿府を隠居地に選んだのか」
等々である。
これまでの歴史・時代小説が史料を鵜呑みにして、なおざりにしてきた部分である。この解決の余勢をかって次に挑戦したのが掲題のテーマ「利休の死の闇」である。
当初は一ヶ月程度の挑戦で、二十五年の年初から始めた「戦国残照」シリーズ(『信長の血脈』文春文庫)の短編の一つとして収録するつもりだった。それがトンデモない間違いだった。
書き直しの連続で物語は泥沼にはまるばかり。ついにパソコンを打つ指先が止まり、先に進めなくなったのである。作家デビュー後、初めての苦い経験だった。
かつて吉川英治さんが、長い間利休調べをした末に、
「利休居士の話は重くて、とても私には書けません」
とギブアップしたという話を知ったのもこの頃である。我が身を振り返り、正直な告白だったのだなと、改めて思った。
おまけに二十五年は炎熱地獄の夏だった。その間、母校の総合図書館に通うこと三十回あまり。そこでも足りない史料を求めて国会図書館に詰めること五回。ふらふらになって、数ヶ月で四キロやせてしまった。
原因ははっきりしていた。利休史料が豊富すぎるのに、私の知りたいことに答えるような内容が、どこにも見つからなかった焦燥のせいである。
豊富の中の貧困
という言葉の意味を嫌と言うほど身をもって知ったのだった。
デビュー作『信長の棺』(文春文庫収録)の執筆では全く逆だった。
こちらは史料皆無。そのため想像の翼を思い切り拡げ、全開しなければならなかった。が、それだけ自由があった。
こちら、利休はそうはいかない。
母校の総合図書館の四階には茶道の書籍が私の両手の幅一杯に、二列から三列並んでいる。そのほとんどが利休関係だから、その史料のどこかに一行でも私の 知りたいことに触れた箇所があるのではないか。それを見過ごして書いては後で発見して悔やんでも追いつかない。これをさぐる日々が続いた。
そんなある日、思いがけない、ある「一行」を利休の年譜の中に見つけた。しかし、その事実を記述する出典の本は母校になかった。