- 2016.09.03
- 特集
東映の歴史とは、すなわち、成功と蹉跌とが糾う、生き残りの歴史である。――水道橋博士(第3回)
文:水道橋博士 (漫才師)
『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』 (春日太一 著)
ジャンル :
#ノンフィクション
第2回より続く
時代劇から「仁義なき戦い」まで数多くの傑作映画を生み出してきた東映京都撮影所の歴史をダイナミックに描いた『あかんやつら』(春日太一・著)。このたび文庫化され、渾身の解説文を書いた水道橋博士。
今回、読書の秋にぜひオススメの一冊として、本書をより多くの人に読んでもらいたいと思った博士がWEB限定で公開する、文庫本の解説よりも長い“一万字”解説をお楽しみください。
「柳の下には泥鰌は二匹も三匹もおるわい」(マキノ光雄)の東映イズム
そこで次作『天才 勝新太郎』は、再び旧・大映撮影所のスタッフを訪ね、新証言を引き出し、資料を漁り、勝新という尋常ならざる「個性」にフォーカスを定め、かつ大映京都らしい格調高い芸術的な深度を再現する趣向で新たに描き直した。
一方、『あかんやつら』は、十年の歳月を費やし、再取材を重ね、東映京都撮影所という共同体の歴史と「集団的個性」を掘り下げ、かつ東映京都らしい、血湧き肉躍る「不良性感度」の高い物語を再現する試みに挑戦した。
この3作は、それぞれ周縁部を重ね合わせながら、各社の映像的社風を反響させた、補完関係にある3部作とも言える。
加えて、東宝と東映の戦後史を対峙させ、論述した『仁義なき日本沈没』(新潮新書 2012年)をも合わせると4部作ともなろう。
この本に沿って言えば、良い意味で「柳の下には泥鰌は二匹も三匹もおるわい」(マキノ光雄)の東映イズムを体現している。
蛇足ながら、『あかんやつら』は「斜陽期にテレビに行かず映画界に残った京都太秦の映画職人たちの物語」であり、その一方では「新天地のテレビへ、戦いながら向かった職人たち」も並列的に存在する。
春日氏は映画史研究と表裏一体でテレビ時代劇史にも入念な取材を重ねており、師匠、能村庸一(フジテレビ・時代劇専任プロデューサー)の導きと共に『時代劇の作り方』(辰巳出版 2011年)など一連の著作がある。
さらに現在はNHKの大河ドラマを題材に、大河ドラマ史という、誰もがその膨大な作業に怯むはずの、文字通り大河すぎる新書も、本丸であるNHK出版から上梓する予定だ。
さて、本作『あかんやつら』は、東映の京都撮影所(京撮)だけに的を絞っているにもかかわらず、65年を超える歴史を遡るとなると、その作品数、情報量は膨大であり、しかも先行の書籍は数々ある。
そこで、筆者は、これまでの静謐な筆致から一転して、史書の群像劇の筋運びに倣い、喧騒な筆捌きを見せる。
さらに、東映時代劇の鉄則「泣く・笑う・(手に汗)握る」、「痛快・明朗・スピーディー」、さらに実録モノの異界を「覗く」、京撮の大衆娯楽の方程式を読者に説明しながら、そのまま換骨奪胎して、本書の文章に取り入れている。