「遠くからやってきたものが新しいのは見なれたものとのへだたりのせいだろうが、また、遠くからやってきたものが古いのは、やってくるのにかかった時のまに、もとの所ではすでにそれが過ぎたものであるからだ。だから遠ければ遠いほど新しいのでもあり、遠ければ遠いほど古い」。
黒田夏子の最新作『感受体のおどり』の終盤近くに記された一節である。直接的には物語の話者である「私」が、幼年期から続けている「舞踊」――「鎖国期の曲」と書かれているので日本舞踊の一派であろう――がもつ性格について述べられたものであるが、それを超えて、黒田の作品世界の構造、さらには黒田という作家が歩まざるを得なかった特異な経歴自体を物語るものでもあるだろう。
黒田がはじめて著作を世に問うたのは、おそらくは最も新しく書き上げられたと推定される『累成体明寂』(2010年)である。そこから時を遡るようにして、1990年代に書かれた『abさんご』を書き直し、2012年の早稲田文学新人賞を受賞するとともに第148回の芥川賞を受賞した。そして今回、1冊の書物のかたちで出版された『感受体のおどり』の原型が完成したのは、1980年代のことである。
現在から過去に遡るかたちで、過去そのものを書き直しながら未来にいたる。黒田が作家として実践し、作品としても実践していることである。『累成体明寂』でも、『abさんご』でも、『感受体のおどり』でも、書き直され、生き直されるのは「私」の過去の「記憶」である。過去の遠い記憶はつねに古く、そして新しい。黒田は、過去の「記憶」の再生を、固有名詞を徹底的に排除してしまった抽象的な時空に、しかしながら「私」自身に固有の物語として、未聞(みもん)の形式のもとで語り直す。
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