- 2016.02.22
- 書評
現役キャスターが書く報道小説『初読のときも泣いたけれど再読してまた泣いた』
文:北上 次郎 (文芸評論家)
『記者の報い』 (松原耕二 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
本書の冒頭近く、主人公の岡村が海外取材から帰宅すると、飼い犬のソラが走ってきて岡村に飛びつく場面がある。テリア系の雑種で、もう九歳を過ぎているから老犬の部類といっていい。捨てられていた仔犬を見て、このままでは殺処分されてしまうと泣いたのは娘の優香だ。九年前のことである。その娘がのちに沖縄で死んだことは続けて語られる。だからその後は、妻里美と二人だけの生活だ。で、海外の仕事を終えて帰宅すると、妻はどこかへ出かけて不在。待っていたのは老犬だけ、というシーンである。
「いい子だ。待っていてくれるのは、いつもお前だけだ」
このシーンで思わず立ち止まってしまった。犬を飼っている人なら、特に中年のサラリーマンであるなら、わかるよなあこれ、と感じ入るのではないか。子供が事故に遇わずに無事であったとしても、いつかは結婚して生家を出ていくだろうから、妻と二人だけの生活は、必ず私たちにも訪れる。そうなると、働き盛りのサラリーマンなら帰宅時間はいつも遅いから、家に帰ったときにすでに家人は寝ていて、迎えてくれるのは飼い犬だけ、というケースは少なくない。岡村の淋しさは、私たちの淋しさだ。
実は、岡村の浮気が露見して夫婦仲がぎくしゃくした経緯の紹介を意図的に省いてしまったが、それにはわけがある。その浮気の露見は、まだ優香が生きていたころで、家庭の中で孤立していた父親を不憫に思ったのか、妻里美との仲をとりもってくれた。その優香もいまはなく、夫婦二人だけの生活が続いている――ということが飼い犬のソラが走ってきて岡村に飛びつく場面の前に語られている。しかしそれは、娘の死と同様に、小説的効果というやつであり、たとえ岡村が浮気をしなくても事態は変わらないのだ。そのことを強調したいがために、意図的に浮気のくだりを省いてしまった。浮気なんてするから家庭内で孤立したんだろ、と言われたくないのだ。男はいつでも孤立しているのだ。その哀しさが、老犬のソラをなでるシーンに集約されている、ということである。つまり、ここには生活の匂いがある。私たちの日常に近い空気がある。
この老犬ソラは冒頭だけでなく随所に登場するが、印象深いのは、岡村が散歩の途中で近所の料理店に入ったとき、外を見ると、柵につながれたソラが静かに空を見上げているシーンだ。動物愛護センターに引き取りに行った帰りの車の中で、名前はソラにすると優香が宣言したことを岡村は思い出す。理由は、たくさんの保護犬の中で一匹だけ群れずに空を見上げていたからだ、と優香は言った。そのソラがいま、外にいる。柵に繋がれたソラにつられて顔をあげると、三日月が浮かんでいる。このシーンが読み終えても妙に残るのは、犬は家族の記憶だからだ。その真実がここに鮮やかに浮き彫りにされている。こういう点景が小説に深みと奥行きを与えていることも見逃せない。
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