宇喜多の捨て嫁
「相手は宇喜多(うきた)の娘だ。それを嫁に迎えるなど、家中で毒蛇(どくじゃ)を放し飼いにするようなものぞ」
宇喜多家の居城・石山城(いしやまじょう/後の岡山城)に、そんな言葉が響いた。
本丸にある庭で、木刀を振っていた於葉(およう)の太刀筋が乱れる。心地よく風を切っていた切っ先が、苦しげに呻いたように聞こえた。於葉は動きを止めて、袖で頬を伝う汗を拭う。
声は大きくはなかったが、悪意は過分に含まれていた。まだ冬が明けたばかりの早朝の石山城内は静かで、嫌でも注意を向けずにはおられない。
「宇喜多の娘」と、先程の言葉を於葉は復唱した。体を心地よく湿らせていた汗が、たちまち違う質感を帯び始める。
きっと昨夜到着した東美作(ひがしみまさか)を支配する後藤(ごとう)家の嫁取奉行(よめとりぶぎょう)の声だろう。随分と年かさを感じさせる声質である。まさか、その宇喜多の娘が庭で木刀を振っているとは思いもしなかったのか。“表裏第一の邪将、悪逆無道の悪将”の異名をとり、毛利や織田にも恐れられる宇喜多“和泉守(いずみのかみ)”直家(なおいえ)の居城で言い放つなど、命知らずにもほどがある。あるいは、於葉がいると知っての上での発言だったのか。そう考えると、於葉の体が外気と同じ冷たさに侵される。
父・直家によって無惨に仕物(しもの/暗殺)された者たちの名前を思い浮かべた。
――中山(なかやま)“備中(びっちゅう))”信正(のぶまさ)。
――島村(しまむら)“貫阿弥(かんあみ)”盛実(もりざね)。
――穝所(さいしょ)“治部(じぶ)”元常(もとつね)。
――金光(かなみつ)“与次郎(よじろう)”宗高(むねたか)。
そして、顔を覚える前に自害した母・富(とみ)の名が、まるで寺鐘のように頭の中で木霊(こだま)する。
噛むようにして、木刀を握った。
息をひとつ長く吐き、於葉は木刀を構える。かるさんという洋風袴に覆われた足を前後に大きく開き、両腕を振り上げた。先程の言葉をかき消すように、木刀を打ち下ろす。
頭によぎるのは、父の謀略の犠牲になった姉たちの姿だ。自害した長女の初(はつ)、気がふれてしまった次女の楓(かえで)。そして主家に嫁いだ三女の小梅(こうめ)も浮かんでくる。木刀を打ち下ろすたびに彼女たちの姿が現れ、また打ち下ろすたびに消えていく。
「姫様、そろそろ対面のお支度を」
疲れさせるためだけに振っていた木刀の動きを止めたのは、老侍女の声だった。まさか、宇喜多家の娘が、稽古着姿で後藤家の嫁取奉行と会うわけにはいかない。かといって、打掛(うちかけ)や小袖で身を飾るのにも違和感があった。己のことを「宇喜多の娘」と罵った悪意とこれから正対することを考えると、甲冑(かっちゅう)に身を包みたい気分だった。
部屋へ戻る途中、腐臭が鼻をついた。口に布を巻いた侍女たちが、盥(たらい)に血と膿(うみ)で汚れた衣服を詰めて運んでいる。歩くたびに異様な空気が流れ、朝の新鮮な涼気が穢(けが)されていく。
父である宇喜多直家の夜着を旭川(あさひがわ)に捨てにいくのだ。
宇喜多直家は、“尻はす”という奇病にかかっている。体に刻みこまれた古傷が腫物に変じ、そこから血と膿が大量に滲(にじ)みでる奇病だ。衣類は数刻もすれば乾燥した血膿で固まるほどであった。穢れた血膿を噴き出す様子が汚物を排泄する尻を連想させるために、尻はすという奇妙な名で呼ばれている。
直家の汚れた着衣を旭川へと捨てるのが、石山城の侍女たちの仕事である。彼女らの苦労に於葉は同情した。役目を終えると、腐臭が半日近くこびりついてぬぐえないほどだという。
もっとも彼女たちも、政略の道具とされる於葉に同情、いやもしかしたら軽蔑さえしているかもしれない。於葉が、自害した母の富や姉の初、気がふれた楓のようにならない保証はない。宇喜多家にとって嫁入りとは、殉死に等しい行為なのだ。
於葉は館の窓から、城下を見た。城の横には旭川が流れており、鏡のような水面が空を映している。遠い川岸には枯れ木と破れ筵(むしろ)でできた流民たちの住み処も小さく見える。
黒点のような人影が見えた。噂では、父の汚れた夜着を洗って売り物にする乞食の老婆がいるという。“腹裂(はらさ)きの山姥(やまんば)”という醜悪な名で呼ばれているらしい。
身を穢し生計をたてる老婆と姦雄(かんゆう)の娘として蔑(さげす)まれる自分、一体どちらの生き様がよりましであろうかと考えた。
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