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第153回直木賞候補作(抄録)
澤田瞳子『若冲』(文藝春秋)

文: 澤田 瞳子

鳴鶴

    一

 大きな角盆をよいしょ、と抱え、お志乃(しの)はつや光りする箱階段をふり仰いだ。

 女子の足には少々高すぎる段を上がる都度、わざと足を踏み鳴らす。顔料(がんりょう)の入った絵皿が盆の中でかたこと動き、ここ数日家内に満ちている梅の香が、その時ばかりは膠(にかわ)の匂いに紛れて消えた。

 階段をこうもにぎやかに上るのは、二階間で絵を描く源左衛門(げんざえもん)への合図だ。なにせ家業を二人の弟に任せ、朝から晩まで自室で絵を描く兄は、ちょっと声をかけたぐらいではお志乃に気付いてくれない。敷居際で待ちぼうけを食らわぬよう、こうして物音を立てながら部屋に向かうのが、兄妹の長年の約束事であった。

 京の春は冷えが厳しいが、今年は暦が改まった直後から、不思議に暖かな日が続いている。表店(おもてだな)の喧騒とは裏腹に、常に湿っぽい静謐の内にある「枡源(ますげん)」の店奥にも、うららかな陽が眩しいほど射しこんでいた。

 先ほどまで土間で膠を煮ていたお志乃の額には、うっすらと汗がにじんでいる。目鼻立ちの涼しい面差しは整っているが、ひょろりとした体軀のせいでどこか華やぎに乏しい。だがそれでも階段を上がる弾むような足取りには、十七歳の若さが自ずとにじみ出ていた。

「お志乃かいな」

「へえ、新しい顔料を作ってきました」

 父娘ほど年の離れた長兄が、いつからこの部屋に閉じこもって絵を描いているのか、お志乃ははっきりとは知らない。家督を継ぐ前からだとも、嫁を娶(めと)った直後からとも店の者は言うが、少なくとも七年前、お志乃が枡源に引き取られた時にはすでに、源左衛門はこの二階間で描画三昧に暮らしていた。

 次兄の幸之助(こうのすけ)と三兄の新三郎(しんざぶろう)が、そんな長兄を苦々しく思っているのは承知している。しかし妾の子である自分にとってみれば、源左衛門の顔料作りの手伝いは、枡源に居場所を得る唯一の手段。また長兄からしても、そんな己だけがこの家でたった一人の理解者である事実に、お志乃はわずかな憐れみすら覚えていた。

 源左衛門が寝起きするのは、奥庭を見下ろす南向きの八畳間。京の商家の例に洩れず、間口に比べて奥行の深い店の中で、もっとも奥まった一室である。

「おおきに、ご苦労さん。そこに置いといてくれるか」

 源左衛門は乗り板の上で細筆を握ったまま、難しい顔で腕組みをしていた。

 乗り板とは作画の際、絵絹の上に渡す頑丈な足つきの板。絵を描く者はこの上に乗って、枠に貼った絵絹に筆を走らせるのである。

 今、彼が手がけているのは、幅二尺(約六十センチ)、長さ五尺弱(約百五十センチ)の絹本彩色画。満開の梅花に月光の降り注ぐ様が、精緻な筆で活写された作であった。

「その絵、まだ手直しするところがあるんどすか」

「ああ、仰山(ぎょうさん)あるなあ。いったいどこから手をつけるか、頭が痛いほどや」

 この二、三日、源左衛門はこの絵を矯(た)めつ眇(すが)めつしては、萼(がく)に朱色を挿したり、蘂(しべ)を描き加えたり、細かな手直しを続けている。

 さりながら梅は本来その清楚さから、著色水墨を問わず、余白を活かす簡素な筆致で描かれるもの。これほど濃密に描き込まれた梅図のいったいどこに、手を加える余地があるのだろう。

 首をひねって絵絹を覗き込むお志乃に、源左衛門はわずかな笑みを浮かべた。

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