大坂冬の陣では、大坂城の弱点に築いた出城「真田丸」を使って徳川軍に大打撃を与え、夏の陣では敵の本陣に突撃し、徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めた真田幸村(信繁)は、今も戦国時代を代表する名将、謀将として高く評価されている。
フィクションの世界では、幸村には個性的な十人の家臣、いわゆる真田十勇士が仕えていたとされる。十勇士が小説や映画の世界で主君をしのぐほど活躍していることも、幸村の根強い人気を支えているといっても間違いあるまい。
真田十勇士には、神出鬼没の忍術遣い霧隠才蔵、怪力の三好晴海入道と弟の三好伊三入道、幸村の影武者も務める穴山小助、鎖鎌の達人・由利鎌之助、十勇士の最古参で参謀の海野六郎、水軍を指揮する根津甚八、爆弾製造が得意な望月六郎、鉄砲名人の筧十蔵と一芸に秀でた英雄豪傑が名を連ねているが、最も知名度が高いのは、甲賀流忍術を学び、地雷火の扱いも長けた猿飛佐助ではないだろうか。
寛文年間(一六六一~七三年)に成立した実録物『難波戦記』には、幸村に仕える忍びが、家康の動向を探ったり、徳川方が本陣を置いた茶臼山に放火したりと諜報、謀略工作を行っていたとある。そして、天明元(一七八一)年頃に書かれた『厭蝕太平楽記』には、幸村の家臣として猿飛佐助が登場、佐助の弟分として「霧隠」(ただし名前はまだない)も出てくるが、二人が何者かは記されていない。文政年間(一八一八~三〇年)に成立した『厭蝕太平楽記』の増補版『本朝盛衰記』には、佐助たちが「間諜(しのび)の妙術を得たる曲者(くせもの)とそ知られける」とあり、忍者であることが明記された。天保年間(一八三〇~四四年)に書かれた『真田三代実記』にも、忍びの達人として佐助が登場し、文政八(一八二五)年の書き入れがある大坂の陣の絵図「新撰実録泰平楽記大坂備立之図」には、真田家の軍勢の中に佐助たちの名前があるので、江戸後期には、佐助を幸村配下の忍者とする見方は広まっていたようだ。
『厭蝕太平楽記』や『真田三代実記』は、上方講談の定番の演目「難波戦記」の種本になり、佐助も活躍の機会を増やしていったが、まだ幸村を引き立てる脇役に過ぎなかった。それが明治末から大正初期に大ブームを巻き起こした立川文庫の第四十篇『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』(一九一三年)で主役に抜擢され、それ以降、佐助は、小説や映画、漫画などの主役として一般的になっていくのである。
庶民に愛された物語や講談の作者によってキャラクターが肉付けされていった佐助は、まさに国民的なヒーローといえる。それだけに、佐助と石川五右衛門のライバル関係を縦糸に、武者修行の旅を続ける佐助と、佐助を慕って追う楓との恋を横糸にして進む織田作之助『猿飛佐助』、忍者としての活躍と平行して、佐助と妻、女忍者との恋愛模様が描かれる富田常雄『猿飛佐助』、立川文庫の世界を現代風にアレンジし、アクションとエロティシズムを強化した柴田錬三郎『猿飛佐助』など、錚々たる作家が佐助を主人公にした作品を手掛けている。その中でも出色なのが司馬遼太郎の『風神の門』である。司馬は、忠義を嫌い自由に生きていた霧隠才蔵が、幸村に仕える組織人の佐助から仲間になるよう誘われ、葛藤する展開を通して、組織と個人はどのような関係にあるべきかを問い掛けていた。