江戸の獄中にあった吉田松陰が遺言して京都に尊攘堂と名付けた「大学校」を興(おこ)す計画があり、門下の入江九一(杉蔵)にそのことを託したのだが、入江は禁門の変で討死した。ついには品川弥二郎がその遺志を継ぐことになる。
情況が移った明治中期、尊攘堂は学問所ではなく、明治維新で活躍した人物の主として遺墨などを収集した私設博物館となった。のち品川はこれを国に寄付したので今では京都大学図書館の所管となっている。
手元にある『尊攘遺芳』は尊攘堂の収蔵品をまとめた図録だが、それを見ると、吉田松陰をはじめ維新関係人物の遺品が多く、変わったものでは奇兵隊日記の大冊や、平野国臣が福岡の獄中で書いた紙縒(こよ)り文字の歌稿などもある。
品川弥二郎は親交のあった元長府藩士桂弥一に、乃木将軍の郷里長府にも尊攘堂をつくるように勧めた。それに応じた桂は長府城下、功山寺の境内に「長門尊攘堂」の名で私設の博物館を開設した。弥一亡きあと桂家が運営を支えたが、下関市に寄付したので今は下関市立長府博物館になっている。それは僕の家から車なら五分ばかりのところである。長府毛利氏関係の古文書のほか坂本龍馬直筆の「新政府綱領八策」(船中八策と一対の文書)など貴重な維新資料を多く収蔵する。
この博物館の横に「万骨塔」と名付けられた直径約十三メートルの大きな土饅頭がある。やはり桂弥一の発起によるもので、維新革命に殉じた全国にわたる無名戦士の出身地の石を霊石として祀っている。会津白虎隊の霊石もあり、その数二百余り。いわば前々世紀末、民族の歴史を創った巨大なパワーストーンの集合体である。
この万骨塔に、なぜか品川弥二郎の霊石がない。無名戦士の概念に添わないということだったろうが、松陰のほか有名人の名も見えるので仲間入りしても違和感はないはずである。最近、有志の発議で品川の霊石が加わることになった。長府博物館には尊攘堂時代から品川弥二郎銅像(座像作者は乃木将軍の甥で彫刻家の長谷川栄作)が収められていたのだが、博物館側はなぜかその由来を積極的には説明してこなかった。
品川弥二郎がなにかにつけて敬遠される傾向は、彼とは特別のゆかりをもつこの小さな歴史博物館にも暗い影を落としていると知って、かねてから不当なものを僕は感じていたのだった。
たまたま二〇一二年は国連の協同組合年にあたり、農協の始祖というべき品川弥二郎顕彰の機運が、彼の出身地である長州山口県の農協中央会を中心に高まった。その仕事の一端がまわってきたのは、僕にとって願ってもない幸運であった。思いがけず山口新聞連載として品川弥二郎と向かいあうことになったのだ。