泳ぎたいな、と思った。
シャツ、スカート、下着を足元に脱ぎ捨て、素肌に水の柔らかさと光の屈折を感じて、音のない空間をどこまでも心の赴(おもむ)くままに進んでいきたい。水温が肌になじむにつれ、自分と世界の境界線が曖昧(あいまい)になり、体重も年齢も性別もその意味を失う。言葉を発しようとしたら、すべてあぶくになって高く高く昇り、白い彼方に滲(にじ)んでやがて消えていく。暑い季節は終わろうとしているのに、何故そんな風に思うのだろうか。
そうだ。目の前の早朝のオフィスは、人の気配がない屋内プールによく似ているのだ。
コースロープで区切られたように整然と並んだデスク、水面を思わせるしんとした薄青い無人の空間。塩素とインクのトナーのにおいも、何かを思い出しそうになる刺激臭という点で、非常によく似ている。誰にも邪魔されずに仕事をするため、一人になれる時間と場所を探したら、一日の大半を過ごしているこのオフィスに結局、行き着いた。自分のもっとも有能な面を発揮しなければいけない空間なのに、今なら意味不明なことを力の限り叫んだり、でたらめなダンスに興じても構わないのだ。もちろん、そんなことはしない。どんな状況に限らず、大声を上げたり、ダンスなどするような自分ではない。
国内最大手の商社、中丸商事大手町本社ビルの十九階フロア半分を占領する、食品事業営業部は朝六時から七時の間は完全に無人だ。海外から食品を輸入し国内の企業に売る、典型的な商社の業務を受け持つセクションである。
目の前に広がる何にも染まっていない真新しい空気が、志村栄利子(しむらえりこ)の常に結論を求めたがる心と身体を落ち着かせる。タイムレコーダーに電源を入れるのは一番乗りの人間の義務だ。腰を屈めて埃(ほこり)っぽいコンセントにプラグを繋ぎ、スイッチをオンにする。壁に掛かったカード入れから、自分の名が記されたものを引き抜くと、機械に差し込む。ゴチ、という音が静寂に沈み、ずらりと並んだ六時台のタイムスタンプが、また一つ更新された。
少女の頃から、なにごとも先取りするのが好きだった。「先手を打つ」のは商社マンにとって大切な資質のうちの一つ、と同じ会社の大先輩でもある父に教えられたからである。世田谷のマンションに一緒に暮らす両親は一人娘が朝食の席に居ないことを不満に思っているようだが、入社して八年目ともなるともう何も言わない。
栄利子は、三十歳になる今も実家を出るつもりはない。母親のサポートなしに、これほど身綺麗さを保ち体調を整えて働くことは不可能だ。母だって、自分が家を離れたら、無口な父と二人きりの日常に息が詰まるだろう。
いかに早く来ても、一人の時間が保てるのは、ほんの四十分足らずだった。同僚の大半が始業八時半の一時間前には出社し、コンビニ食を片手にメールをチェックしているのが当たり前の職場なのだ。五十以上はあるデスクの間を縫うように、母親が蛍光灯の輪郭まではっきり映るほど磨き抜いたTOD'Sのパンプスを交互に絨毯(じゅうたん)に沈め、自分の持ち場をまっしぐらに目指した。食品事業営業部の半分が正社員だが、そのうち女性は、栄利子と十年先輩の四葉佐弥子(よつばさやこ)主任の二人だけだ。対して派遣社員・契約社員は全員女性だが、彼女達が出社するのは始業ぎりぎりと決まっている。
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