ひと昔、いや、もっと前になるだろう。オール讀物の中井勝編集長(当時)から、こんなことを言われた。
「書けない、書けないとあなたは悩んでいるようだが、なに、そんなものはニューギニア島で戦った兵士に比べたら、どうってことない贅沢な悩みなんだよ」
そのころスランプに陥って苦しんでいた私は、いきなりニューギニア島が出て面食らった。おおかた励ましがわりの冗談だろうと思ったほどである。
しかし中井編集長は真顔であった。私に向けられたまなざしには、軟弱な人だというような怒りの色さえ浮かんでいると感じた。
編集長は本気なのだとわかったが、だしぬけにニューギニアうんぬんを持ち出されたって……と、私は内心ちょびっと反発した。かつての太平洋戦争の激戦地と、私のスランプがどうつながるのだと思った。
中井編集長は退社ののち、森史朗の筆名で『敷島隊の五人』、『零戦の誕生』、『運命の夜明け 真珠湾攻撃 全真相』などの異色ある戦記ノンフィクションを上梓(じょうし)されるようになった。
どの作品も主観を抑えた硬質の筆致でつづられ、読む者を圧倒し粛然とさせる。実際、私は森作品を読むうちに、あのときの反発など吹き飛んだ。
思うに、中井編集長はそのころすでに、出征兵士たちの眠る資料の山に分け入り、彼らに代わって語るべく、悲惨な戦争の追体験をなさっていたのだろう。ニューギニア島の激戦はそのまま編集長の日常の一部であったにちがいない。
さて、重たいテーマに真っ向から取り組んできたこれまでの森作品からすると、本書『松本清張への召集令状』はいささか趣きを異にしたものと言えよう。
氏は、戦中戦後の暗黒混乱期を語るキーストーンとして、作家松本清張を据えた。
没後十六年となる今なお多くの愛読者をもち、作品が繰り返し映像化される大作家をとおして語る本書は、戦時を知る者も知らない者も等しく引きつける磁力がある。
さらに氏はここに、松本清張の担当編集者として長らく伴走してきた中井勝みずからを登場させる。伴走者の目に映った大作家の愛すべき素顔を楽しみ、かつ氏ならではの清張作品の解説や取材旅行の裏話などを興がっているうちに、読者はいつしか本書の核心にいざなわれていく。
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