川上未映子・著『夏物語』

著者コメント

 『夏物語』は、これまで書いたなかで、いちばん長い物語になりました。小説を書くときはいつも怖いし、困っているし、不安でたまらないのですが、でもこの作品を書いているときはそんな自分の感情や都合が入り込めないくらいの強い何かにずっとずっと惹きつけられていました。子育ても家事も、ほかの仕事も生活もしていたはずなのに、執筆期間のことがうまく思いだせません。この数ヶ月のあいだ、わたしは『夏物語』の登場人物たちの喜びや悲しみや苦しみ、そして笑顔や生きてきたみんなのさまざまを聞く、耳や目そのものにでもなったようでした。書き終わったとき、前髪のほとんどが真っ白になっているのを鏡のなかで見つけてびっくりしたのですが、もしかしたらここではないどこかべつの場所に行っていて、なんとか戻ってこれたのかもしれないな、そしてこれは、わたしの体に残った旅のしるしなのかもしれないな、とも思いました。

 とくべつな誰かに会うために、どうしてひとりではだめなのか。
 そもそもなぜ、わたしたちは知りもしない誰かに会いたいと思うのか。
 生むこと、生まれてくるとはどういうことなのか。

 わたしたちにとって最も身近な、とりかえしのつかないものは「死」であると思うのですが、生まれてくることのとりかえしのつかなさについても考えてみたいと思っていました。そして書き終わったいまでも、その思いはさらに深まり、わたしをノックしつづけています。

 最後のページから顔をあげたとき、読んでくださったかたは、何を感じてくれるでしょう。こんなふうに生まれてきて、生きて、死んでゆくこの世界のいっさいを、どんなふうに感じてくれるんだろう。 風は? 光は? 思いだす誰かのこと。もう帰らない日々、いつでも思いだせる笑顔、すべて。もし叶うなら、わたしはひとりひとりと、そんな終わりのない話がしてみたい。小説を書くということは、もしかしたらその気持ちとつながっているのかもしれません。

『夏物語』が、どうかあなたの人生の大切などこかと結びついて、いつまでも響きあう物語でありますように。

川上未映子

作品紹介

生まれてくることの意味を問い、
人生のすべてを大きく包み込む、
泣き笑いの大長編。

 大阪の下町に生まれ育ち、小説家を目指し上京した夏子。38歳になる彼女には、ひそやかな願いが芽生えつつあった。「自分の子どもに会いたい」――でも、相手もおらんのに、どうやって?

 周囲のさまざまな人々が、夏子に心をうちあける。身体の変化へのとまどい、性別役割をめぐる違和感、世界への居場所のなさ、そして子どもをもつか、もたないか。悲喜こもごもの語りは、この世界へ生み、生まれることの意味を投げかける。

 パートナーなしの出産を目指す夏子は、「精子提供」で生まれ、本当の父を探す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。いっぽう彼の恋人である善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言う。

「どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろう」

 苦痛に満ちた切実な問いかけに、夏子の心は揺らぐ。この世界は、生まれてくるのに値するのだろうか――。

 芥川賞受賞作「乳と卵」の登場人物たちがあらたに織りなす物語は、生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いの極上の筆致で描き切る。

 ページを繰る手が止まらない、エネルギーに満ちた世界文学の誕生!

著者紹介

著者近影

川上未映子

1976年大阪府生まれ。2007年『わたくし率 イン 歯ー、または世界』『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』で早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞、08年『乳と卵』で芥川賞、09年詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で中原中也賞、10年『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞、13年詩集『水瓶』で高見順賞、『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、16年『マリーの愛の証明』でGRANTA Best of Young Japanese Novelists、『あこがれ』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『すべて真夜中の恋人たち』、『きみは赤ちゃん』、『みみずくは黄昏に飛びたつ』(村上春樹氏との共著)、『ウィステリアと三人の女たち』など。17年には「早稲田文学増刊 女性号」で責任編集を務めた。