『夏物語』は、川上さんがこれまで取り組んできたテーマの集大成といえる最大長編となった。以前から川上作品に深いシンパシーを感じてきた翻訳家の鴻巣友季子さんを聞き手に、生む/生まない、そして人が生まれてくるとは何かを、『夏物語』と共にたどる。
(「文學界」8月号に掲載された記事を再構成したものです)
『乳と卵』の緑子のその後
鴻巣 『夏物語』の第一部は『乳と卵』をもう一回語り直そうというモチベーションが先にあったのでしょうか。それともAID(非配偶者間人工授精)というテーマが書きたいものとしてあり、もう一度『乳と卵』に向き合って、三十八歳になった主人公・夏子の視点と語りで書いてみようと思ったのか、どちらでしょう。
川上 動機は複数あるんです。何年か前、『乳と卵』に出てくる夏子の姪・緑子が気になっている時期があったんです。十二歳だった彼女が二十歳前後になって、どう変化しているのかなと。ただ、その興味は『あこがれ』でヘガティーという女の子を書いたことで、いったん落ち着きました。その後、AIDを題材に、生殖倫理にまつわる長篇を書きたいと思うようになりました。そのテーマと『乳と卵』の登場人物たちが結びついたんです。
鴻巣 『乳と卵』で緑子が抱えている女性性やそれに伴う身体の変化というものに対する、強烈な違和感と疑義は、今回の作品の根幹の部分とつながっています。
川上 緑子は『乳と卵』では、小さな反出生主義者というか、卵子と精子を合わせないほうがいいのではないかという直感に近い実感を持っています。それと生殖倫理は地続きの問題です。私たちにとって取り返しのつかないものの代表は「死」。だけれど、それと同じように生まれてくることの取り返しのつかなさもある。それを書くには、『乳と卵』に出てきた夏子とその姉の巻子、そして緑子の三人をもう一度登場させて、彼女たちがどのように生きてきたのか、身体の変化はもちろんですが、その背景を含めて展開しなければと思いました。
鴻巣 AIDという題材を選ばれたことには、そこにつながるバックグラウンドがあったんだと思います。その意味でも、前作の『ウィステリアと三人の女たち』は重要な作品ですね。特に表題作が、ヴァージニア・ウルフの『波』への果敢なオマージュ、そしてカウンターパンチみたいなところもあります。
表題作に出てくる女性は、今回の主人公である作家の夏目夏子と同年齢の三十八歳。『ウィステリア』の主人公は、妊娠を望みながらもかなわない。不妊治療も夫に拒まれるというか、全く関心がない。この夫は一見優しくて理知的に見えるけど、実は陰湿なモラルハラスメントをどうも繰り返していて、どうやら浮気もしていて、彼女を相当追い詰めている。最後にこの女性は、精神が崩壊するような、闇の中に意識が溶け出してしまうような体験をする。夜の廃墟の中で、闇と過去の記憶と、自分の記憶と他人の記憶とが混然一体となるような境地に陥っていく。そういう意識の流れがウルフも顔負けの文体で見事に描かれていました。
川上 ありがとうございます。鴻巣さんにそう言っていただくと嬉しいですね。
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