書名(かな) | きちじょうじにそだてられたえいがかん いのかんえむいーじーばうすきちじょうじっこえいがかんさんだいき |
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ページ数 | 248ページ |
判型・造本・装丁 | 四六判 軽装 並製カバー装 |
初版奥付日 | 2018年12月13日 |
ISBN | 978-4-16-008945-7 |
Cコード | 0074 |
東京・吉祥寺の駅前商店街の一角に、4年前、惜しまれつつクローズした「バウスシアター」という映画館がありました。爆音上映、寺山修司特集、チェコアニメ、「ロッキー・ホラー・ショー」等々、個性的な企画で名を馳せた、芝居も音楽会も落語会もやるという型破りの劇場で、著者はその館主だった人です。じつはこの人、映画館主の子として生まれ、映画館を遊び場として育ち、長じて父の映画館に就職し、ついには父・兄を継いで映画館主となった生粋の「映画館屋」(ご当人は冗談めかして「かつどうや」と称しています)なのです。大正末年、吉祥寺に初めて映画館ができました。著者の父はその「井の頭会館」(略称:イノカン)に就職し、やがて館主となります。この「イノカン」は、「吉祥寺にも文化を!」という思いから、地元の有志たちが力を合わせて作ったもので、いわば吉祥寺文化の出発点でもあるのです。ですから父も大学を出てから父の仕事を助けるようになった兄も、「映画館は文化だ」という思いを胸に映画館を切り盛りしてきました。著者にもその思いが脈脈と受け継がれてきたわけです。「イノカン」は邦画の封切館でしたが、著者の父は昭和26(1951)年、吉祥寺にもう1軒、「武蔵野映画劇場」という洋画専門館を作ります。その「武蔵野映画劇場」を改築し、昭和59(1984)年にオープンしたのが最初に述べた「バウスシアター」でした。大入りに沸くこともあれば、不入りに悩むこともある映画館という商売。そんな浮き沈みの激しいなりわいに苦労しながら、でも、文化という灯は守り続ける。それが著者ら映画館屋の誇りでした。著者が本書で語るのは「イノカン」「武蔵野映画劇場」「バウス」の三代にわたる劇場の栄枯盛衰であり、知られざる舞台裏であり、吉祥寺を住み良く面白くしようとする街の人々との交流です。映画好きのみならず、吉祥寺という街に興味を持つ人は必見の貴重な証言です。
幕開け――根っからの映画屋からのご挨拶1 村に娯楽がやってきた――戦前の吉祥寺と父 駅も娯楽施設も住民の力で 流れ流れて東京へ 活動弁士から勤め人に 娯楽の受難時代2 映画館が遊び場だった――戦後の復興と子供時代 終戦後の吉祥寺 網を持って魚とりに
上半身裸の映写室
「映画館は儲かる!」
戦後すぐの外国映画事情
「武蔵野映画劇場」開館
母との死別(わかれ)
3 映画の世界に憧れて――高度経済成長の中の青春
映画は顔パス
吉祥寺初の貸しビルに
宣伝途中に一番風呂
テレビ時代が始まって
4 映画屋(かつどうや)稼業、始まる――映画業界の夢と現実
「お前は映写技師になれ」
配給会社に日参する
暗中模索と副業の試み
出会いと別れ
転機となったロックコンサート
5 「バウスシアター」、船出する――”何でも屋劇場”の七転び八起き
「シネピット5(ファイブ)・ムサシノ」
元演劇青年の面目躍如
予想外のスタート
演劇も音楽も落語も
手探りだった音楽祭
企画こそ命
三劇場体制へ
イベントの街・吉祥寺
6 吉祥寺らしさを忘れるなかれ――個性派映画館のたたみ方
けじめをつける
映画「パークス」
エンディング――この街にもっと文化を、エンターテインメントの力を
主な参考文献
関連年表
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